慈濟傳播人文志業基金會
山に囲まれ再び青春を生きる
焼け残った天燈(ランタン)が落下して、資源回収所が火事で焼失した。
菁桐には近所の人達が集まって世間話をする場所がなく、
地域のケアセンターをお年寄が笑顔で楽しく集まる場所にした。
 
台北盆地に隣接した木柵から車で約三、四十分山道を上ると、山に囲まれた鄙びた村に着く。廃坑や鉄道、古い町並み、そして天燈(ランタン)祭りが行われる他、近くを爽やかな基隆河が流れる。休日になると観光客が訪れ、写真を撮る他に、ついでに誓願の竹筒を掛けて、天燈を空高く上げる名所である。
 
春が過ぎて秋になると、花開いては萎れるように、大勢の人が押し寄せていた盛況も、人口の流出で大多数の平日はひっそりとし、七、八十歳の銀髪老人がいるだけだ。新北市平渓の素朴な小部落は、またの名を「菁桐」と言う。
 
 
胡詹明珠は一九四六年に菁桐の近くにある白石村に生まれ、成長してから隣の「十分」と言う村に嫁いだ。その後、鉄道会社で働いていた夫と共に菁桐の町にある鉄道会社の宿舎に引っ越して子供を育てた。
 
彼女は一九七一年に鉄道会社に就職し、宿舎の管理員をした後は改札員を勤めた。自嘲気味に「私は頭が良すぎたから合格しなかったのです」と、正社員の試験に僅か一点の差で合格しなかったことを笑顔を浮かべて話した。その後、彼女は二○○六年に定年退職した。
 
習い事の好きな胡詹明珠は、四十年間絶えず北管という楽器の練習を続けていた。「お節介屋」とも呼ばれ、一九九一年に社会局の「平溪ボランティアチーム」に入って、緊急時の支援活動に参加していた。退職後、近くの衛生所でボランティアをしていたが、視力低下や膝の手術を受けていても、血圧測定を手伝ったり車椅子を押していたりして、一刻もじっとしていられないのだった。
 
地元の人にとって胡詹明珠はまるで区長のような存在で、顔が広く、彼女を知らない人はいない。更に、子供の教育が評判になり、二〇〇五年には模範母親を受賞している。
 
その年、家族を大切にしていた夫が急逝した。彼女が悲しくて毎日涙にくれていると、同じ鉄道局員の家族で、中山区慈済ボランティアをしていた黄麗華が彼女に慈済に入って悲しい気持ちを乗り越えるよう誘った。その後は、北管の練習で知り合った、深坑地域の慈済ボランティアの李雪蘭がリサイクル活動に参加しないかと彼女に声をかけた。
 
證厳法師が提唱する資源回収が地球を護るという理念に賛同している胡詹明珠は、菁桐地区一帯に環境保全の理念を押し広め、近所の人々を積極的に説得して資源回収をした。その後、隣の人が提供した空き地に臨時の回収拠点を建てた。このことを聞いた会社の昔の同僚も、客が使った空き瓶や鉄缶、不要になった紙などを集めて持ってきてくれた。
 
しかし残念なことに、二年前空から完全に蝋燭の火が燃え切っていない天燈(ランタン)が落ちてきて、回収所に火災が発生し、すべてが焼失してしまった。仕方なく、胡詹明珠は住宅の手前にある限られたスペースで回収物を整理し、回収物が多くなった時は、それを運んでもらうよう木柵慈済環境保全教育センターに電話していた。いつもこの話になると、残念な気持ちで胸がいっぱいになるという胡詹明珠は、回収物を収集する便利な拠点が一つ減ったことは同時に、近所の人たちと一緒に楽しい世間話のできる理想的な場所が少なくなったことだと嘆いた。
 

皆のことなので、皆で奉仕する

 
この町では、三カ月ごとに新北市社會局の職員が市町村を巡って年配者を対象にカラオケを楽しむ「巡迴老年カラオケ」の活動が行われているが、胡詹明珠はこのレクリエーションだけでは老人たちにはもの足りないと思い、給食サービスの提供をしようと考えた。しかし経済的に余裕はなかった。ある日、衛生所でボランティアをしていた時、主任の林太仁医師にこのアイディアを話すと、林医師の賛同を得た。
 
しかし財源はどう作るべきか?悩んだ結果、彼女は「そうだ!」と思いついた。確かに天は自ら助くる者を助くと言われるように「願を掛けたら力が湧いてきたのです」と彼女はつくづく思った。高齢化社会の到来に合わせ、慈済基金会は台湾各地で老人ケア拠点を作り積極的に対応している。胡詹明珠もその援助の対象となることができたのだ。そして、二○一七年七月五日から「慈済菁桐地域ケア」が毎週水曜日の朝、菁桐里の公民館で賑やかに行われるようになった。
 
それにしても、もう一つ問題が残っている。菁桐、白石と薯榔各地の一人暮らしの年配者たち、特に行動が不自由な人たちをどのようにして拠点まで来てもらうかを考えなければならなかった。
 
幸いなことに、普段から仲のいい近所の人たちが手伝ってくれた。例えば菜食料理屋の葉明進は朝の七時半から車で送る仕事を引き受けた。彼は「水曜日は私と家内は休日にする」と自分の生計を維持するより、自分の親のように年配者を拠点まで送り、活動に参加させるのだと言った。
 
●菜食料理店のオーナー葉明進は毎週の水曜日、午前7時半から年配者たちを次々と車に乗せ、活動の会場まで送る。
 
「家にいるのはつまらない、やっぱりここが面白いよ」と会場にくる年配の人たちに比べると若く見える鄭聡栄は、今年七十歳を超えているが、彼は遠くの薯榔地域に住む年配者の送り迎えをする担当者である。老いを感じ始めながらも、彼は暇があると必ず手伝いに来る。まだ動けるうちは社会奉仕のチャンスがあれば把握し、年配者のケア活動に力を入れ、人手不足の解消の役に立ちたいと思っている。
 
休日や衛生所の看護師が会場に遅れた時など、代わりに協力している人物は菁桐地域発展協会理事長の楊明益である。彼が年配者の血圧測定をして健康状態を記録している姿をよく見かける。床に敷物を敷いたり、テーブルや椅子を並べる必要がある時は、皆 喜んで袖を捲くりあげ、一緒に手を貸してくれる。
 
●菁桐地域発展協会理事長の楊明益(左)が年配者の血圧を測り、測定値を記入している。
 

健康に目を向ける 今日は最高だ

 
「私は百歳まで生きたい、百歳になっても健康的に…」と流行の髪形をしている新北市松年大学の講師である蔡裕馨は、会場へ次々に訪れる年配者に対し笑顔を浮かべながら声を揚げて体操を教えていた。彼女は年配者の口や体が良く動くように、手を叩いたり、体を揺らしたり、耳たぶを引っ張ったり、頬のマサージをしたりする他、隣の人と肩を組む一連の動作を繰り返し示していた。
 
「今日一番素敵な人は誰でしょう?」と蔡裕馨先生は年配者たちに聞いた。「先生だ!」と可愛い自分たちの娘のような先生に年配者達は口を揃えて言ってからどっと大笑いした。蔡裕馨もありったけの腕前を発揮して冗談まじりに歌を歌ったりして、年配者達に楽しんでもらっているため、笑い声は終始会場に溢れていた。
 
「何もなくても考えて何かしていれば、認知症にはなりません」。「手を高く上げる動作をすれば、腕の筋肉の萎縮を抑えることができます。毎日自分で行えばもっと効果的です。分かりましたか?」と蔡裕馨が北京語と台湾語を交えて、健康の知識を伝えた。そして家にじっとしていると居眠りしてますます元気がなくなるから、活動に参加するようにと励ました。
 
「さあ、一緒にやりましょう」と画面に映し出された動きに合わせながら、ヨガマットの上でポーズをして見せるのは胡智慧である。彼は胡詹明珠の長男で、新竹のある有名な電子会社に勤めているが、休日にはこの体操の時間を手伝っている。
 
●ボランティアの胡智慧(胡詹明珠の長男)は菁桐地域の年配者たちにストレッチを教えている。
 
首と肩のこり解消法から、腰の強化トレーニング、そして背骨の矯正まで、彼は一つ一つゆっくり教えた。更に血液の循環をよくするストレッチのために、マッサージボールや弾力ボールも購入して無料で提供し、年配者たちに喜ばれていた。
 
手伝ってくれるのは息子だけではない。娘の胡素真も来てくれた。この日、台所を担当する人が体調を崩して欠席したので、助手役の胡素真が代わりを努め、ボランティアの呂麗卿や地元の環境保全ボランティアたちと一緒に腕を振るった。
 
年配者に寄り添い、料理の確認や台所の手伝い、進行係りなどをしながら、七十三歳の胡詹明珠はこまねずみのように忙しくしても笑顔を絶やさなかった。彼女の奉仕する姿を目にした息子や娘は、自然に歩み寄り、母と行動を共にしていた。
 
物価が上昇しても、毎週のように四十人から五十人以上の人々に食事を「食べ放題」で提供するが、時には経費不足になることもある。だが、心の優しい近所の人たちが野菜や果物、デザートなどを直接台所に持って来てくれたり、お金を寄付する人もいるそうだ。「彼女は二千元も寄付してくれました」と胡詹明珠が近所に住む心優しい黄玉燕を紹介した。力だけでなくお金も寄付してくれた黄玉燕に、胡詹明珠は心から感謝していた。
 
インドネシアから来て介護の仕事をしているライラさんも楽しい雰囲気に感動して卵がいっぱい入った袋を持ってきた。それを皆に差し上げたいのでゆでてくれるよう胡詹明珠に頼んだ。
 

寿命宝蔵に年齢を預ける

 
「法師が開示する仏法をいつも聞いていますが、年を取っても自分が年寄りだとは思っていません。活動に参加した方が体にいいし、顔も若く見えると思うのです。これはまさに法師がおっしゃっている慈済クリームの効果なのです」。
 
「子や孫たちが良い報いを受け、皆が幸せであるように、私は善行の歩みを速めなくてはならないと思います」。胡詹明珠は法師の「生きているうちは動きましょう」という教えの通りに積極的に社会奉仕活動に参加している。法師が展開した慈善活動や、環境保護、医療などの志業に参加できることに心から感謝していると言った。
 
●テーブルに運ばれている美味しい料理の皿を、胡詹明珠が並び変えている。
 
「法師は五十歳を寿命宝蔵に預けるように、と言われましたが、私の場合は五十歳を預けると二十三歳ですから、まだまだ若いのです」。自分は勉強が足りないので、色々と学ばなくてはならないと謙遜して言う胡詹明珠は、もっと多くの年長者が健康的で楽しく幸せに暮らせるようにするため、自分はもっと頑張らなくてはならないと思いながら菩薩道を楽しんで歩んでいる。
(慈済月刊六二七期より)
NO.273