一九七七年に屏東が強い台風サロマに襲われました。慈済は直ちに支援活動を展開し、その縁で屏東支部が設立され、数人の女性が今までとは違う人生を歩むようになり、家庭を出て社会に足を踏み入れました。
花蓮に帰った時、法師は私の短い髪を見て目に涙を浮かべ「どうして髪を切ったの」とおっしゃいました。二、三十年前のことで、花蓮慈済病院建設資金を募るために、陳満は黒髪を切ってバザーに出したのです。
陳満の慈済委員番号は一七二で、法名は静行です。師と弟子の情は、屏東が一九七七年台風サロマの来襲に遭い、上人が屏東に災害視察や支援に来られた時から始まりました。阿満こと静行師姐は支援活動で師匠と共によく出かけることがあり、その時に師弟の縁が結ばたのです。
慈悲心に満ちた陳満はその時から頻繁に花蓮静思精舍に戻って畑仕事等を手伝いました。法師や常住師匠たちの側で衆生ために奔走されておられる法師の苦労が身に沁みたため、募金集めを発願してより多くの人が慈済に参加するよう期待しました。
慈済創立当初は、車二台に分乗して一日かけて家庭訪問し、師姐たちは炊飯器や漬物、切り干し大根の炒め物などの他、阿満の得意とする豆腐の漬物を持参し、昼になると木陰に座って「訪問ランチ」を食べました。
阿満は自転車に乗れなかったので、弁当を持ってバスで浄財を集めに行き、昼時になると道端に腰を下ろして弁当を食べていました。
彼女は法師にお会いしてから、出逢う人ごとに慈済を説明しました。法師に追従して菩薩道に励む心は堅く、四十年以上もどんな善事も喜んで奉仕しました。彼女は二〇一八年九月四日、慈済世界の美しさを説き続けた満百歳の人生に終止符を打ちました。
模範的な過去の行い
陳満の実家は新竹で、父親は鉄路局に務めていました。家庭の経済状況は良く、日本統治時代でも兄妹五番目の彼女は小学校に行くことができました。その後屏東に嫁いで、電力会社に勤めていた夫の李同寿との間に一男一女に恵まれました。
生活に心配がなかった彼女は慈済に巡り合った後、悠々とした生活を一変させたのです。当時の様子を語ってこう言いました。「時間があれば精舍に行き、忙しく厨房の手伝いをした後、畑で雑草取りをしました。雑草は取るよりも伸びるのが早く、こちらで取ったと思ったら、向こうで生えてくるので永遠に取りきれません」。
勤倹な日常生活をする精舎では、時には塩漬けした豆腐を数日間のおかずとして出します。「食事の時、皆は遠慮して法師と同じテーブルに座らないのです。なぜなら、法師の召し上がる量は少なく、直ぐに食事を終えるので、私たちはお代わりできないのです」と言いました。
その後、慈済病院を建設することになり、陳満は一層倹約して、少しでもお金が貯まれば、病床を一つ寄付しました。法号が思修の夫も賛成してくれました。彼女は若い時から貧困者や弱者に尽くし、晩年は子供や孫の孝行に恵まれ、一人息子の李春長は模範父の名誉賞を受けました。
「私の孫が日本へ留学していた時、私の足が悪いと知って軽い日本製のシルバーカーを送ってくれました。家から出る時はそれを頼りにし、歩き疲れた時は座って休みます」。息子と孫たちが優しいので、陳満はとても幸せなのです。
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●陳満(写真中央)は2014年4月屏東の古参委員や後輩委員と一緒に、花蓮精舎に帰った。沿道しきりに、私たちの故郷へ帰って上人にお会いし、蝋燭作りや洗濯のお手伝いをする、と言った。(撮影・林美瑜) |
彼女の応接間の壁には、所せましと慈済に参加していた時の写真が飾られていました。人々に初期の法師の大変な生活を話して聞かせる時、いつも涙ぐみました。そして、話の終わりはいつも顔を上げて「法師様、お体を大切にしてください。貴女様を必要としている人が大勢いるのですから」と言いました。
陳満は社会と家庭に対して無私の奉仕をしてきました。足るを知り毅然と責務を果たした人生は、慈済人の模範として後輩を教育しているのです。
(慈済月刊六二七期より)
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