慈濟傳播人文志業基金會
未知の旅路 
セルビアを経由するシリア難民に寄り添う
 
数年前、シリア人はバルカン半島を通って内戦の戦火を逃れていた。そして今はもっと多くの中東や南アジア諸国の人々が、経済や宗教が原因でこの道を辿って、安全な場所であるEU加盟国で生活できることを望んでいる。セルビアの国境を通過する間、彼らは出発のチャンスを待っているが、辛い事もあれば感動的な出来事もある。
 
バルカン半島の国々は、二○一五年から次第に国境を閉ざすようになり、大勢のシリア難民はEU加盟国に行くことができず、セルビアに待機せざるを得なくなった。慈済はその知らせを受け、二○一六年の始めに、ヨーロッパのボランティアが支援に赴き、防寒服やベービー用品、即席飯、食器類を提供し、今でも引き続き寄り添っている。
 
慈済は毎年難民に必要な夏と冬の衣類とゴム草履を提供しているが、同時にオブレノヴァツとクルニャチャの二つの難民キャンプでは毎日朝晩にパンと飲み水を配付している。二○一八年オブレノヴァツ難民キャンプに、コンピューターとテレビも提供したため、若者たちは食事の時間に世界の様子を見られるようになった。
 
●セルビアのシド難民キャンプは主に難民家族を受け入れており、大勢の子供が小さい頃から両親と一緒にここで避難生活を送っている。この一家は今年初めに慈済から冬服を支給された。(撮影・蔡婉珍)
 
多くの難民家族は子供がまだ小さいため前に進めず、キャンプに留まったまま何年も過ごしている。セルビア政府の難民及び移民事務委員会は、学齢期の児童を現地の学校へ就学させるべく手配を始めた。二○一八年九月に慈済はランドセル、本と文房具を難民児童に配付した。また、今年の初めには医療スタッフがキャンプに入って、子供たちに歯磨きの方法と健康管理を指導した。
 
シリアの内戦は大分鎮まってきてはいるが、難民が少なくなったことを意味しているわけではなく、国を離れた理由は、ただ人間としての基本的な生活を求めているからである。しかし、時が経つにつれ、周りの国々が手を差し伸べなくなり、慈善機構も去りつつある中、避難途中で足止めされて身動きできない状況は、難民にとっては辛いことである。ヨーロッパの慈済ボランティアは諦めることなく、三年余り苦労を厭わずセルビアを往復すると共に、現地及び隣国のボスニアからボランティアを募って共に難民たちを支援している。
 

大家族の食事

(撮影・デヤン・アセンテイェヴィス)
 
オブレノヴァチ難民キャンプは千人近い人を収容しており、セルビア国内の大型難民キャンプの一つである。全員が男性で、パキスタン人が最も多く、次がアフガニスタン人、そして、少数ではあるがソマリア、マリ、インド、イラク、シリア、スリランカなどの国からも来ているが、彼らは大部分が経済難民であり、ヨーロッパで仕事に就くことを望んでいる。
 
慈済は二○一七年から難民に朝晩の二食を提供しているが、食堂は食事の他、交流の場にもなっている。ボランティアが訪れると彼らは必ず自発的に挨拶し、並んで食事を待つ間もイライラすることはなく、以前よりも笑顔が見られるようになった。彼らが問題に遭遇すると、ボランティアも彼らの聞き役になる。
 
昨年、慈済が贈った五台の六十インチ広角画面のテレビは食堂の壁に掛けられ、食事の時に英語の字幕が出る大愛テレビニュースや番組を放映している。六カ月かけてやっとセルビアに到着した、二十歳のパキスタン人カムランは、大愛テレビを見て「慈済が世界各地で人助けし、ここでも寄り添ってくれていることに感動しました」と言った。
 
難民管理委員のドゥサンは「テレビ番組はここに足止めされている難民に重要な情報を提供しており、我々の管理の助けにもなり、良い効果ばかりです」と言った。
 
今年の三月中旬、ボランティアが再度尋ねた時、一部の難民がまだ第三国に旅立っていないことに気づき、互いに顔見知りから仲良くなった。難民は、大愛テレビの番組は様々な力を与えてくれると言った。慈済ボランティアが世界各地で苦難を助けているのを見ると、自分たちも孤独ではないのだと分かったそうだ。
 
ボランティアの観察によると、難民たちは十数ヵ国からの異なる民族と宗教の人たちだが、着いたばかりの人も長く留まっている人も皆、仲良く、一緒に食事したり運動をしており、まるで一つの大家族かコミュニティーのようである。それもボランティアが彼らを放棄しない理由で、そこに愛の力が既に熟成しているのを見たからである。
 
ボランティアノート
 
若かりし頃
文‧陳尤重(ホンコン) 訳・李曉萍(明湉)
 
 難民たちに近寄って話しかけた時、彼らの殆どが青少年であることに気づいた。その多くは半年間から数ヶ月間かけて険しい山道を越え、セルビアにたどり着いたのである。長い道中、野宿しながら、飢えと寒さの中、破れた靴ならまだしも、片方しかない人もいた。私は一人の男の子が左足に破れたスニーカー、右足にビニール製草履を履いているのを見て、気温が零下の雪の中をどう堪えてきたのか、想像もつかなかった。
 
 十代から二十歳の頃は、人生の中で一番重要な成長の時期である。彼らと同じ年頃に一人で海外へ留学したことを思い出すと、どうしたら彼らを助けてあげられるだろうかという疑問が何回も私の頭の中に浮んできた。しかし逆に考えると、実は彼らが私を成長させていることに気づいたのである……。私はこの子供たちが一刻も早く平穏無事に暮らせるようにと心から祈った。
 
旧友と新しい友達
文・蔡婉珍(ドイツ) 訳・李曉萍(明湉)
 
 今年の元旦にセルビアに来てみると、多くの新しい顔に出会った。色々な国から来ているが、みな同じ背景を持っている。宗教や民族の違いに命まで脅かされ、ただ平安な日々を過ごしたいために故郷から一家で避難しているのである。こんな簡単な願いでも、実現するのはこれほどにも困難なのだ。
 
 多くの旧友はボランティアが来たのを見て喜び、お互いにハグし合った。子供たちはボランティアの手を引っ張って、もう一度「家族」という歌の手話をやろうとねだった。私をもっと感動させたのは、毎回慈済の竹筒歳月の話をすると、多くを持っていない難民たちが少ないながらもお金を寄付してくれることだった。この苦難の道で、愛の寄り添いと関心がどれ程大切なことかを実感した。
 
 

新年に新しい服

(撮影・王素真 オブレノヴァチの難民キャンプ)
 
今年のヨーロッパは稀に見る暴風雪に見舞われ、三十年来最悪の天候だとメディアが報じた。ヨーロッパのボランティアは足止めされている難民が寒さに耐えられないことを心配して、今年の正月に五日間の冬物の配付活動を行った。雪に覆われた真っ白なセルビアに、十一カ国計三十三人の慈済人が到着した。
 
ドイツのボランティア范徳禄と陳樹微夫婦は、ミュンヘンから八百六十キロも車を走らせ、途中で降り続く大雪と積もった雪道を乗り越え、およそ十二時間かけてやっとたどり着いた。セルビアで配付活動をする時はいつも活動に使う物資を運搬する重要な役目を担っている。六、七十歳のボランティアにとって、重い荷物を車に上げ下げすることはとても大変な仕事である。特に陳樹微は、持病があって、行動の不自由な夫の世話もしなければならなかった。単に気力と勇気が必要なだけでなく、真の願力があってこそ、一歩一歩前進することことができるのである。
 
慈済が二○一六年から行っているセルビアのケア活動に、夫婦は毎回、参加しているが、いつも一番最初に来て最後までやり遂げている。そのどんな困難も乗り越えて進む姿勢にメンバーは感服し、感動した。
 
難民が他国に逃げる経路は多くが険しい山越えで、森林の中に身を隠しながら国境警備員の目を避けなくてはならない。運悪く捉えられれば、拘禁されたり殴打の憂き目に遭う。何ヶ月も彷徨い、手持ちの食糧と物質が少なくなり、冬を過ごすのはなおさら大変である。気温が下がってくると彼らは難民キャンプの中に入って、寒さを凌ぐのである。
 
ボランティアが冬服を配付していた時、一部の難民がまだ夏の半袖を着て足にゴム草履か破れた靴を履いたまま、雪が舞う中で冬服配付の行列に並んでいたのを目にした。氷点下何度という厳しい寒さに耐えられず、毛布で身をくるんで待つ人もいた。
クルニャカの難民キャンプでは、難民委員会の行政規則によって、難民は雪の中で一時間も二時間も待たなければならなかった。若者だけでなく、子供を連れた親もいて、ボランティアは見るに忍びなかった。彼らを抱きしめて少しでも温もりを伝えようとした。
 
ある難民は、一枚しか服がなかったので、他の人から借りて、交代で着ることで洗濯できたと言った。数人の若者は服をもらった後、すぐ宿舎に戻って着替え、冬になってやっと服を着替えることができた、と心から喜んだ。
 
(撮影・陳樹微 プリシポヴァチの難民キャンプ)
 
初めて難民ケア活動に参加したイタリアのボランティア潘雅倩は感慨深かった。「一部分の子供たちは防寒コートさえも持っていないのです。ここに来るまでどれほど大変だったことでしょう。彼らに比べると私たちはとても幸せだと気づきました」と彼女が言った。
 
今年の正月に、慈済のボランティアはオブレノヴァチ、クルニャカ、アドアセブチ、プリシポヴァチ及びシドの難民キャンプにおいて、計二千八百六十三枚の冬服を贈った。
 
 
ボランティアノート
 
家族全員で一緒にいたいだけ
文・陳翊暐(イギリス) 訳・李曉萍(明湉)
 
 難民キャンプの子供たちは本当に無邪気だった。彼らに向かって笑いかけたり、軽く手を握ってあげると、嬉しそうにハグして寄りかかってくる。
 
 本来なら、何の憂いもない子供の時期であるはずなのに、両親の後について苦労して長い道のりを逃避しなければならないと思うと不憫でならない。彼らは難民キャンプでは小さいながらも大人のように、親の通訳をしたり、年下の弟や妹の面倒をみている。
 
 難民たちはボランティアを見かけると、いつも笑顔で迎えてくれる。物資を受け取った後の感謝の気持ちと満足した様子から彼らの世界がとても単純であることが見て取れる。家族全員が一緒に暮らし、三食にありつけて寝る場所が有ればそれで良いのだという。
 
 一方、我々の生活は裕福だが、際限なくより多くの物を追求すれば、さらに多くの煩悩と不愉快さをもたらすことになる。
 
 難民キャンプでの生活は単調で、日一日と難民たちはいつか自分にも転機が訪れることを祈っているが、今はただ祈ることしかできない。私は奉仕の機会を得たことに感謝し、たとえ一日だけでも、彼らに慰めと希望をもたらし、世界には多くの人が彼らに寄り添っていることを知らせることが出来たとすれば幸いである。
 
セルビアを離れても、彼らのことを忘れたことはない。特に難民委員会の責任者から支援する団体が少なくなってきたと聞いたからだ。より多くの人が難民たちの窮状に目を向け、彼らの運命を変えてくれるように祈って止まない。
 
 

外の世界とつながる

(撮影・王素真 キキンダ難民キャンプ)
 
ある六歳の女の子は両親と姉と一緒にアフガニスタンから何度も車に乗り換えたり、徒歩で一年掛けてやって来た。途中イラン、トルコ、ギリシヤ、マケドニアを経て、やっとセルビアに到着したが、キキンダ難民キャンプに来て既に二年になる。
 
セルビア難民委員会によって学齢期の児童は地元の学校に就学することになったため、その女の子もセルビア語と英語の両方を学ばなければならない。今はさらに楽しみが増えた。慈済とデルタエレクトロニクス社がコンピューターを設置してくれたので、これから彼女はインターネットでアニメが見られ、英語の勉強もできるのだ。
 
昨年十二月六日、ボランティアがオブレノヴァチ難民キャンプに来た時、難民委員会からある国際救援団体が撤退するので、そのスペースを改装して難民に使用してもらうことを告げられた。その時、偶然の縁でドイツの慈済ボランティア鍾家隆が勤めているデルタエレクトロニクス社に廃棄処分になる旧式ノートパソコンがあったので、その機会に物の寿命を延ばすと共に難民キャンプに贈ることを会社が同意してくれた。今年の正月と三月に合わせて二十七台のコンピューターが設置された。
 
難民委員会は三つの難民キャンプを設置の対象に選択した。学齢期の児童が多いキキンダとソンボルの難民キャンプ、そして若い男性を主に収容しているプリシポヴァチ難民キャンプである。「インターネットは難民たちにとって非常に重要です。家族との連絡が取れるコミュニケーション用のソフトを搭載しました」とボランティアの鍾家隆が言った。
 
インターネットのおかげで家族と連絡も出来るようになり、また外の世界とも繋がったことで勉強の幅が広がり、世界の様子も分かって外との隔りもなくなった。コンピューターは特に子供たちが宿題するのにも役に立っていると難民委員会のスタッフ・ポーナーが言った。
 

前向きの考えをもたらす

ヨーロッパへの難民は増え続ける一方なのに、セルビア難民キャンプでは何年も使ったマットレスがすでにボロボロに破れていた。昨年の後半、難民委員会は慈済に協力を求め、今年の正月に歳末祝福と冬服の配付、児童の衛生教育活動を行なった時、宿舎ケアも行い、古く破れたマットレスを目にして、交換する必要があることを確認した。
 
ボランティアはそれについて相談して計画を立て、二カ月後に再度セルビアに戻り、一千枚の新しいマットレスを四つの難民キャンプに贈ることにした。
 
その新しいマットレスは品質が良く、柔らか過ぎず、年配者が腰や背中に痛みを覚えることもなくなる。また、取り外せるカバーは洗うことができ、常に清潔で衛生に保つことができる。三月十一日にアドセブチ難民キャンプで行われた簡単で心温まる贈呈式では、難民委員のタルディアも来て感動を分かち合った。「私たちは慈済人と出会えたことをとても嬉しく思っています。物を持って来るから嬉しいのではなく、喜びと分かち合いをもたらしてくれるからです」。慈済人は前向きの考えに満ちた、微笑みと愛で善と美を難民に伝え、委員たちも喜びに浸った。
 
シド難民キャンプのキャンプ長であるタニヤもそれに賛同した。ボランティアは配付をしてくれるだけではなく、同時に子供たちと遊んだりして交流を持ってくれることが、他の慈善機構と違うのだという。「以前の私たちはただの友人関係でしたが、今では家族のようです」。
 
今まで何人かで一つのベッドを使っていた難民家族もいたが、新しいマットレスが敷かれると、子供たちが待ちかねたようにベッドに飛び込んで寝心地を確かめていた。そして親指を立てて「いいね」という表情を見せたので、ボランティアたちは嬉しくなった。
(撮影・デヤン・アセンテイェヴィス)
 
ボランティアノート
 
千里でも遠くない
文・慈直(オーストリア) 訳・李曉萍(明湉)
 
 この三年間で十回ほどセルビアのシリア難民を慰問した。毎回後押ししてくれる家族と七十一歳になってもまだ健康であるこの体に感謝し、大切にしている。ボランティアチームの中では年長者だが、まだ各国のボランティアと一緒に学ぶことができるのだ。外国語は苦手で、笑顔とハグで難民達の心を慰めている。
 
 毎回千人もの難民に会い、彼らの哀愁に満ちた悲しい目つきと、季節に合わない服装を見る度に、憐れみの情が心に湧いてくる。彼らには一日も早く理想の安全な場所にたどり着いて欲しいものである。また、自分も健康であり続け、慈済人として長く菩薩道を歩けるようにと願っている。
 
(慈済月刊六三〇期より)

 

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