過去を回顧すればするほど、
自分が今ここに在ることの有難さを切実に感じる。
今この時を大切にし、未来のために一層努力しなければならない。
この身を利用できる間は、一秒たりとも放棄せず、
ある限りの時間を費やして生命を発揮し、
心してその価値を高めよう!
六月十五日に行脚に出かけた日は病を抱えていながらも各地を見て回りました。訪れた各地で「あの年、あの人、あの一念を忘れるべからず」について、皆の以前の話を聞きました。七月十五日に戻るまでの三十一日間、私は毎日のように自分を奮い立たせていました。毎日、ボランティアたちが愛のエネルギーを発揮して世の中に奉仕しているのを見て、皆の生命の尊さを感じ、感動の中に浸っておりました。
台湾の九二一大地震が発生してから今年で二十年になります。被災後、慈済は五十一校の校舎を再建する希望工程という支援計画を引き受けました。子供たちは校舎の損壊で学業を中断したことはなく、その多くは今は大学を卒業して社会人になり、母校で教鞭をとっている人もいます。
当時、慈誠隊員が被災地の建設現場に長期駐在して景観工程に携わり、慈済委員は交代制で炊き出しをしており、その軌跡は今でも残っています。慈済人の生命がそれら学校と密接な関係にあるのは、彼らが世の中のために「無縁大慈・同体大悲」の精神を発揮したからです。
また、慈済は被災地に千七百戸の仮設住宅を建設して、被災者の過渡期の生活に提供しました。ボランティアは男女を問わず協力して鉄筋を担いだり屋根の上に上ってネジを取り付けたりし、夜は床に寝て、片時も惜しんで建設を急ぎました。
台中に行脚した間、曽て仮設住宅に住んでいた被災者が皆の前で話してくれました。「仮設住宅に入居した時は家具などの設備は全て揃っていました。そして、三年の期限が来て引っ越した時、私は浴室の洗面台など家具を新しい家に持って行きました」。今年、大愛テレビ局の記者が彼を取材した時のこと、慈済が選んだ家具は一番良い品質で、入居者が使い易いように配慮されていることに言及した時、彼は急いで洗面台を調べ、国際的に有名なメーカーだったと知ったのです。彼は慈済人の誠意を感じると共に、自分は施しを受けたのではなく、尊重されていたことを感じたのです。
この数十年来の重大災害支援を省みるのは、「懐かしむ」ためではなく、再び災害が起きないことを願っているからです。非常時には、慈済人は一切を顧みず、どれほど重く困難な任務でも全うし、「慈悲深い人」となってこの世に幸せをもたらします。あの時の記憶を思い起こし、慈悲利他する細胞を眠らせないと同時に、絶えず愛を啓発して福を作ることに努めるのです。
神仏に加護を願うのではなく、福を作ってこそ幸せが訪れるのです。人々に共に福縁を結ぶよう呼びかけて初めて、社会は平安になります。善を積む家には余慶(祖先の善行によって子孫が得る幸運)があり、福が多ければ、人助けができます。そして人々を利するだけでなく、自分の人生の価値を高めることにもなるのです。
過去を回想すればするほど、今を大切にしなければならないことがよく分かります。今を大切にすれば、将来もっと努力するようになります。私の青年期も中年期も一秒毎に過ぎて行きました。今は老年期までも過ぎ去ろうとしています。年を取れば、体は病苦から免れられず、話しをすることさえ思うようになりません。しかし、私は力を尽くして自然の法則に向き合い、一層努力し、一分一秒を惜しんで生命の価値を作り出し、慧命の時間を勝ち取ろうと思っています。
行脚に出ていた間、ひっきりなしに発願したいという人が来て、「法師、私は最後の一瞬までボランティアします」と言いました。五十数年前に慈済を創設した時は、私はまだ若かったのですが、今は過去を呼び戻すことはできません。生、老、病の後にはもう一つの関門があり、次に目を開けた時は、私は何処にいるのでしょう。この生涯で福縁を結んでいれば、心は安らかになり、必ず縁のあるところに生まれ変われるでしょう。そして再び衆生を悟りに導きたいと思っています。皆さんも私と離れるのが忍びないというのでしたら、私より先に行く人を私は呼び戻し、私より遅く来る人には手招きをして呼び寄せましょう。皆さんもいつの世でも菩薩道から離れないようにしてください。
まだ体が利用できる間は、一秒たりとも無駄にはできないのです。私は休息せず休暇も取りません。私はまだ生きているのですから。まだこの体で沢山の事をやらなければならないのです。時間があるだけ生命を発揮して、この人生の宿題をやり遂げるのです。日々自分を訓練し、知識を智慧に転じてこそ、未来の方向も自分で定めることができるのです。皆さんも心して精進してください。
(慈済月刊六三三期より)
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