台風被害から一年、ウーライの今
ウーライ(烏来)は台北盆地の最南端に位置する高台の地、南勢渓と涌後渓という二つの流れが出会う場所である。雪山山脈の変質岩層で形成されたその土地は、木々を育み、渓谷と滝、温泉という自然の景観に恵まれている。このように、観光地として有名でありながら、その陰で黙々と環境保全に奉仕するボランティアのグループがいることは、ほとんど知られていない。
この日、私たちは徐雪英さんと一緒にウーライ滝にある資源回収所を訪れた。崖から勢いよく流れ落ちる滝の音はまるで雷鳴のごとく響き渡り、水面に真白なしぶきの花を咲かせて美しかった。その左側は、しかし髪の毛を刈り取られたように無惨にも斜面が一筋露わになっている。そしてそこにまだ点在する倒木は昨年の台風被害の爪痕を物語っていた。滝で写真を撮ろうとする観光客はいるが、その足元で土砂が両脇に寄せられていることに気を留めた人がどれだけいるだろうか。土砂はまるで山が流した涙のように見える。山自身も痛々しい変わりようを嘆いているかのようだった。
ここでボランティアに取り組んで二十年になる雪英さんにとってこの光景は見逃すわけにはいかない。「風光明美を愛でた時代はもう過去のものになってしまいました。ボランティアをしながら見る滝や桜の花に私たちはどれだけ癒されたかしれません。本当にきれいでした。今はもう見られないかと思うと悲しくてなりません」
山林にも休息が必要
「曲水の宴に興じる古の蘭亭の如し」と賛美され雅を誇ったウーライだが、今では人影もまばらなひなびた温泉街となってしまった。ふと橋の下にある公共露天浴場を見ると足湯につかりながらお年寄りが古い日本の歌を口ずさんでいる。時折ハーモニカの伴奏や手拍子も入る。温泉の効用をよく知るそのお年寄りたちはこう語ってくれた。
「十五年前、私たちは体の調子がどうも思わしくなかったのですが、温泉につかりながらこの山々をみていると、大自然のエネルギーが体いっぱいに流れ込んでくるような気がしました。山に癒してもらっていたのです。ここ数年の間は、ウーライが切り開かれていくのを目の当たりにしながら、山がその代償を引き受けてだまって耐えているように感じていました。山は声をあげませんが、去年台風に襲われたとき、私には伝わってきたのです。もうだめだという山の叫びが。山も疲れていたのでしょう」
この話にある通り、ウーライには温泉旅館が乱立したため配管がやたらと枝分かれして張り巡らされていた。緑豊かな山の風景の中、灰色の建物も目立ち、不自然さを醸し出していた。それに比べて私たちが出会ったお年寄りたちは、露天浴場を楽しみながら人とのふれあいを満喫し、大自然に心身を癒され、お互いに敬愛の心を以て讃え合っているのだった。
山林と渓流は本来人々に憩いとレクリエーションの場を無限に与えてくれる存在である。有効期限もなく、分け隔てもしない。しかし、人間は貪欲にも開発を続けてきたのだ。山はもう限界だ。私たちはもう一歩深く考える必要があるのではないだろうか。心身に休息が不可欠であるように、目の前に広がる山林と渓流にも休息する時間とゆとりが必要だとはいえないだろうか?
ウーライで活動する環境保全ボランティアたち
街をきれいにしようとウーライのボランティアは常に観光名所を巡回している。訪れた人にゴミの分類と回収について説明しているのだ。彼らボランティアの努力の結果、ウーライは元々数名の人が自宅付近の清掃をするだけだったのが、二十年を経た今日では二十五カ所の資源回収所がある。滝や商店街、雲仙遊園地、紅河谷などの観光スポットにも例外ではない。
それらは温泉業者が有志で提供している場所もあれば、山合の先住民族が集落に呼びかけてできたところもある。
昨年の台風十三号の際、慈済ボランティアの呼びかけに応じて清掃活動に参加してくれた人々は一万人以上もいた。その関心の高さに地元の人々は非常に感銘を受けたのだった。協力し合うことがいかに大切であるかが分かり、また日頃からエコ活動を行っていく気持ちが芽生えたのだった。今ではウーライの町はボランティアたちに守られているといえる。雪英さん曰く、「昔まいた種が芽を出し、今また新しい種をまいていこうとしていています」
受け継いでくれる人に託したい
ウーライの商店街には「簡かあさん」とよばれる人がいる。簡郭銀妹さんという老菩薩だ。自宅のある地区で最初にボランティアとなった人である。元々レストランを開いて家計を支えながら忙しく働いていたが、引退した後は、警察局ウーライ駐在所で交通整理のボランティアをしていた。彼女は住民のために苦労をいとわず、ある時は食事が不規則な警察官たちのために自分の得意な料理を差し入れたりしていたそうだ。
簡かあさんは、人々に寄り添うだけでなく、地域の居住環境にも関心を持っている。彼女は、観光は経済効果をもたらすと同時にゴミを持ち込むこともあり、その弊害についてよく理解していたのである。自分から率先してごみを拾い、資源回収を行い、多くの住民に影響を与え続けた。一台の手押し車を押しながら、店から家々を往復しては回収所へ運んだのだ。最近になって少し手足が衰え始めた簡かあさんだが、ウーライの伝説としてその姿が語り継がれている。当時のことを思い出して、彼女も感慨深そうに話してくれた。「この十数年間、ウーライを訪れる観光客はそれほど増えてはいませんが、資源回収の量は減るどころか増えているのですよ。私もだんだん年を取ってきましたから、今はほかの人たちが運んでくれたり分類してくれたりするのに任せています。専用車も来てくれるようになりましたからね」
言葉ではそう言いつつも、簡かあさんは環境保全への思いを持ち続けている。自分が幸せであることに感謝し、そのお返しとして大地のために奉仕したい、この思いを引き継ぐ人がきっと現れるはずだと信じて、ウーライのために働き続けているのだった。
山林を自分のことのように愛しむ
今年八十二歳になる許金蓮さんはウーライの紅河谷に住む環境ボランティア。この仕事をして二十年近くなるというお年寄りである。
この日は、久しぶりに徐雪英さんと洪志文さんと一緒に過ごすことができた。環境保全の話題になると、昔の様子を思い出して話してくれた。「休日になると一日千人近くの観光客が訪れ、バーベキューをしていました。人々が帰ったあとはゴミの山が残るばかり。私はいつも大きなゴミ袋を持って川の中にまで入りゴミを拾っていました。ゴミの中で一番多いのはバーベキュー用の網とペットボトルでした。全部拾い集めるのに一週間かかり、それらを三トン半トラックで運んだのですよ」
観光客は一時的な滞在者、大地にとっては通行人にすぎない。だが彼らはあろうことか楽しい宴の後を片付けることもなく、残骸を残したままで過ぎ去るのだ。残骸は心から山を愛するボランティアの手によって初めて片付けられたのである。山を自分のことのように愛しむ彼らだから成し得たことだった。ウーライにはまだ十数名のエコの種を持つボランティアがいる。金蓮さんと同じように、大地を大切にするのは自分の責任だと考えている。その尊い考えは誰もが見習うべきであり、広めていく価値があるといえる。
台風の来襲後、紅河谷のシンボルである九寮大橋は依然として立ち続けているが、その下には大量の土砂が堆積してしまった。金蓮さんの思い描くふるさとの風景は様変わりしたのだが、禍転じて福となり、山にも休息の時間が訪れたと考えることもできる。どうか自然を大切にし、身勝手な利欲に気づいてそれを抑えてほしい。紅河谷の美しい流れが元に戻るのはいつの日になるだろうか、緑生い茂り、生命にあふれる山の姿を、早く金蓮さんに見せてあげたいものだと願ってやまない。
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