慈濟傳播人文志業基金會
高雄の「野を愛する人」 柯耀源
 

「柴山ナンバーワンガイド」の柯耀源は自らの書いた解説板をしげしげと見つめていた。アマチュア出身だが、独学で知識を積み、その知識を人々と分かち合いたいという情熱から、、山林や原野で語り尽せない物語を語るようになった。本当に野を愛する人である。

 

天上の神仙たちが暇にまかせて雲を払いのけて人間界を覗いてみると、人間たちがロマンティックな愛情の中を漂っており、心に憧れを抱いた。そこで恋愛の味を味わってみようと、二人の仙人と一人の仙女が人間界に降りて「環境影響調査」をすることになった。思いもよらないことに、三人の仙人、仙女が俗世に来てからというものお互いに譲らず、二人の仙人は仙女を争って大ゲンカになり、一人がもう一人を真っ二つにしてしまった。「仙」の命にかかわることゆえ、玉皇大帝が出てきて裁定を下し、三人を罰した。勝った仙人は柴山(寿山)に変えられ、半分にされた方は半屏山に、そして仙女はその二人の間に位置する蛇山へと変えられ、お互い永遠に寄り添うことになった。

柴山の「四本ガジュマル」の下にあるスノコに立ち、寿山国家自然公園のボランティアガイド柯耀源は楽しそうに私たちにこの面白い伝説を話してくれた。

生き生きと情熱的に話す柯耀源の外見はいたって普通のおじさんである。しかし地球公民基金会責任者の李根政によれば、「柴山ナンバーワンガイド」だそうだ。いつでも外に出かけ、一度話が乗り始めると、そばで話を聞いている人があっという間に二倍、三倍になる。その解説は魅力にあふれている。四本ガジュマルというこの場所は、その名の通り四本のガジュマルから命名された。ここはまた柯耀源が柴山ナンバーワンガイドとなった重要なスタートラインの一つであり、高雄市街における緑の宝庫の危機と再生を見守り、記録してきた場所でもある。

 

南の緑の革命に参加

 

柯耀源が生態と歴史文化のガイドを始めたきっかけは二〇〇〇年代初期、高雄で環境を保護しようという呼びかけが続々と行われた頃にまでさかのぼる。

長期にわたり工業発展の中心とされてきた高雄は空気と水の汚染にいやというほど苦しめられてきた。地元の環境保護運動家は山や川の整備や緑への意識を持つよう積極的に呼びかけ、「南の緑の革命」を推し進めた。その中で、長期にわたり軍の管理下にあったために貴重な植物が本来の生態を留めていた鳳山の衛武営基地と柴山はどちらも重要なケースだった。

柴山は特殊な高位サンゴ礁石灰岩の地質で、この地が海から山への地殻変動を経てきたことを示しており、台湾西部ではここにしかない。歴史の軌跡は異なる時代ごとに与えられた山の名称からも見て取れ、歴史的根拠によって考察できる名称は十一にも上る。明代の末、この地に住んでいた平埔族の人々は自分たちの言葉で「TAKAU」と呼んでいた刺竹を使って海賊を防ぐ工事を行い、大きな竹林を作り上げた。漢民族の人々は音が似ている「打狗山」とこの地を呼び、ここから日本統治時代「高雄」の名が生まれ、戦後もこの地名が残った。『台湾府志』には「その形鼓の如し」と記載されており、西側の独立した山塊が見たところ鼓に似ているところから、「鼓山」という名になったとしている。十八世紀のオランダの宣教師はこの山にサルが多いことから、「猴山」と呼んだ。

日本統治時代になり、当時視察に訪れた裕仁皇太子の誕生日を祝うため、「打狗山」は一九二三年に誕生祝いの意味を持つ「寿山」へと改名された。戦後、国民政府は蔣介石の誕生日を祝うべく「万寿山」へと変更し、それから再び「寿山」へと戻した。現在よく知られている「柴山」は庶民の生活と最も関係があり、この地が高雄へ柴や薪を供給するところという意味から取られたものである。

「清代以前、人々はここに柴や薪を刈りに来て、哈瑪星や旗後などの地へ運んで売っていたんです。日本統治時代は国有保護林になり、皇族の行楽地として緑化も進められました。しかしその後は台湾セメントがやって来て、一部の区域で爆破を行い採鉱していました。この山は様々な破壊と復元を経てきたと言えるのです」と柯耀源は言う。

戦後は山全体が長期にわたり軍事と採鉱という二つの大きな力によってコントロールされ、入山は許可されなかった。しかし一部の冒険好きな高雄の人々は、あらゆる手を使ってこの都市の中の美しい秘境を探検しようとし始めた。一九九二年になり、台湾セメントの採鉱権が期限を迎え、前後七十四年に及んだ採掘が終わり、軍事統制も部分的に解除された。このような背景の下、「柴山自然公園促進会」が生まれたのである。発起人は美濃(台湾南部の町)出身の作家呉錦発、自然を描くことが得意な王家祥、撮影家の鄭徳慶、医師の黄文龍などであった。同会は、柴山は民衆のもとに返されるべきで、政府も人々が山に親しむことを促す政策を立て、保護責任を負うべきであると主張した。そして「柴山」を協会の名とし、庶民の運動という本質を強調したのである。

もともと山林に興味を持っていた柯耀源は、促進会が主催した第一期ガイド訓練に参加し、柴山保護の隊列に加わった。「あの頃は人手が足りなくてお金も労力も必要で、私はとにかく飛び込んでいきました!」と当時を振り返る。彼は政府が柴山を国家自然公園に指定することを願い、他の促進会のメンバーと共に何か月もの間登山口で署名や請願を行い、一万にもなる署名を集めた。

柯耀源は、台湾セメントの採鉱による生態の破壊を記録するため、何日かおきに当時の愛犬ララを連れて山へ行き、現在の四本ガジュマルの位置に立ち、鉱区全体を撮影したものだと振り返る。植林による再生の途上であった山はどこも長年にわたり大型機械で採掘された痕跡だらけであり、木陰など全くなく、そのためララが熱中症になってしまったこともある。

彼の取り出した一冊の分厚いファイルの中身はすべて二十数年前の鉱区全体の写真であった。同じ角度に立って現在の緑豊かな景色と比べると、「大自然の自己回復能力は、本当にとても不思議なものだ」との感慨が湧き起る。

 
柴山に立って北東を見渡す。蛇山と半屏山が目の前に連なっている。
高雄市街に隣接している柴山は、豊かな生物の種類と地質環境で最良の生態教室となっている。
 

 

74年の長きにわたる採鉱で柴山の山体は傷だらけになったが、植林による再生を通じて(下の図)、以前の鉱区にも草木が生い茂るようになった。(上の図、撮影/柯耀源)
 
 

一流のガイドへの道のり

柯耀源について柴山を登り、西子湾海岸を巡ると、柴山、寿山、万寿山の名前の由来がついに理解できると同時に、生態と歴史文化の授業をしっかり受けたことにもなる。

「『東部は岩石海岸、西部は砂浜』、私たちは以前地理の教科書でこのように覚えさせられました。しかし高雄の柴山は大変な特例なのです。ここにはたくさんの時間の秘密が隠されているのです!」柯耀源の顔にはふるさとに対する誇りがあふれる。

メディアに登場する機会の多い専門家に比べ、工業高校卒業の柯耀源は独学と山林や原野に対する愛情を頼りに、少しずつプロのガイドとしての知識を身に着けていった。

卒業後、柯耀源は高雄郵便局に就職し、郵便配達を担当、以来三十五年間勤め続けている。安定した単純な仕事によって、柯耀源は思うまま自分の趣味に打ち込むことができた。家庭を持ってからもやはり山野を忘れることはできず、一九八五年、彼は新婚の妻を連れオートバイにまたがり二十二日間の台湾一周旅行をし、外にテントを張って寝た。翌年娘が満一歳になったばかりの時、夫婦はおむつを着けた赤ん坊を連れて再び南部横断道路を旅行した。

郵便配達の仕事をしていた頃、高雄と台北の郵便配達を十三年間担当しており、よく夜中にトラックを運転しては南北を往復した。二日間の仕事の後二日間休みになるので、その休みを利用して柯耀源は北部の山林を熱心に探検した。「皆私が柴山の話しかできないと思っているけど、実は台北まで往復していた頃、私はいつも勤め先が用意する宿泊先に泊まらないで七星山でキャンプをして、全部回ったんです。だから私は七星山の解説もできるんですよ!」

柴山のボランティア訓練に参加しただけでなく、柯耀源は高雄市文献委員会の史蹟研究員や台湾生態センターの環境ガイドの訓練を通して、自らの解説能力を高め、広げてきた。その努力の仕方は際立っている。『高市文献』、『国家公園季刊』などの出版物では、彼が投稿した調査の感想や古い写真の紹介、観察ノートなどを時折見ることができる。

彼の山野に対する愛好は家族にも影響を与え、夫婦は毎年に息子と娘を連れて一緒にさまざまな山に登る。

 
柴山の地質は高位サンゴ礁石灰岩であり、炭酸カルシウムは浸食と堆積を経て鍾乳石を形成している。そこに深く壮麗な峡谷地形と植生が加わることで、台湾西部で他に見られない特殊な景観となっている。
 
柴山の「タイ谷」は外来種のキッスス・シキオイデスに覆われ、カーテンを下げたような景色になっている。
 
タイワンザルは柴山のアイドルだが、近年は人類がエサを与えるために数が激増し、生態バランスに影響を与えている。
 

人と自然の関係を観察する

 

市街地から柴山へは車でわずか十分、すぐに原始的な森林と完全に天然である地質の奇観を見ることができる。山林に入るや柯耀源の博学さと巧みな言葉使いが直ちに発揮される。

「今日のポイントは山登り? それとも生態を知りたい? それとも歴史や地質のことを聞きたい?」山に登る前に彼はこう尋ねる。「山の知識はどんなに話しても話し尽くせません。あなたの体力と受け入れる能力に応じて、二時間、五時間、八時間でも私は話すことができますよ」

彼は台湾特有の「魔芋」(コンニャクイモの一種)を紹介してくれた。花序の外見はライフルのようで仏炎苞もあり、とても奇妙である。しかも強烈な腐敗臭を放ち、標高わずか三百五十六メートルの柴山が主な分布地である。「これは最も『臭くて美しい』植物として知られているものです。以前犬を連れて登ったとき、大きくて臭い変な花を見て、犬もそれに向かって吠えましたよ」、柯耀源は興奮して言う。毎年春夏の時期は、台湾魔芋と密毛魔芋が剣のように地表に顔を突き出す季節であり、ハエたちを引き寄せて受粉させる。そして一部の好奇心旺盛な人類も「臭さ」を求めて、その様子を見にやって来る。

柯耀源の解説のもう一つの特徴は、動植物の特性から人々を自然界について別の角度から考えさせるのがうまいことだ。例えば人類の生活と関係が深いガジュマルは大きな日陰を作ってくれるが、森林の中では他の植物に恐れられているのだ。侵略性の強いガジュマルの「絞め殺し現象」にあい、その呼吸根にきつく絡みつかれたなら逃れるのは難しく、そのためガジュマルは「森林の中のならず者」とも呼ばれている。

他の地区からやって来た観光客の注意を最も引きつけるタイワンザルの話になると、柴山を二十年以上観察してきた柯耀源は憂い顔になる。「前は『猴亭』まで行ってようやく恥ずかしそうなサルを見ることができたんです。登山遊歩道ができてから、観光客がエサをやるものだから、たった三年の間にサルは千匹以上まで増えて、習性も全く変わってしまいました。今では人の食べ物を奪い取ります」。彼は既存の生態系のバランスを保つため、山に登る人に野生動物にエサを与えないよう呼びかけている。

柯耀源は私たちを連れて人類による開発の影響を受けておらず、登山客が比較的少ない中寿山一帯に入っていった。峡谷や鍾乳石壁、石簾を一つ一つ通り過ぎる道々、最初は驚きの声を上げていたが、やがてただ息をのんで見つめるようになった。静かで美しい折れ曲がった峡谷は、地殻運動の跡を示している。石灰岩の性質によって形成された鍾乳石は気候に従ってゆっくりと侵食され堆積し、まるで呼吸しているかのようである。つい先ほどまで私たちはにぎやかな高雄市街にいたなどとは想像しがたい。

柴山は二〇一一年、行政院により正式に国家自然公園として指定されると共に、寿山国家自然公園設置準備室が設立され、ボランティアガイドを訓練している。柯耀源は第一期の重要なボランティアであるだけでなく、訓練を担当する先生でもある。現在自然公園全体に二十ある解説板のうち、十三は柯耀源が記述したもので、二十年以上の解説能力はしっかりと評価されているのである。

 
 
柴山の植物
柴山はサンゴ礁石灰岩の地質で、土壌の成分は炭酸カルシウムであるが、これにより特殊な生態が生み出された。ここには約800種の植物があり、生態観察が好きな柯耀源を引き付け、時間のある時にカメラを担いで撮影をするようになった。(図/柯耀源)
 
 

山中に物語を持つ「野を愛する人」

 

普段は勤めに出ている柯耀源は、仕事が終わっても休む暇がない。高雄の各社区大学すべてで授業をしているからだ。「ある生徒に、先生の話すことは多すぎて消化できない、話すことを少し減らしてほしいと頼まれました」

彼の授業や解説を聞くのは確かに楽なことではない。しかしより強く感じることは、知識を分かち合うことへの喜びである。山を半分登ったところにある柴山で有名な「雅座」で休憩している時でさえ何かの話を聞くことができる。

雅座の東屋の中で誰もが称賛するのは無料の養生茶や台湾風梅干しが提供されることであるが、これらはすべて人々が自主的に提供しているものである。「私たちのいう『人情味』とは、知らない人でも全力で助けたり、自分とは関係なさそうなことでも思いやることです。台湾は移民社会ですから、ここに来て開墾をした人には親戚も縁故もなく、助けてほしければ神様に祈るしかなかった。神様に応えるために良いことをすると約束し、だから道端でお茶を旅人にふるまいました。ここ柴山もそういうことなのです。ある人が自発的に水を背負って山に登り茶を沸かした。そのうちに独特なふるまい茶(奉茶)の文化が形成されたのです」と語る柯耀源の緻密な見解に、雅座で休憩している他の人たちも興味深く耳を傾ける。

柴山自然公園促進会の初代会長黄文龍は柯耀源を「柴山のことを話しているときの興奮した様子と何かを見つけたかのような様子は多くの専門家をしのぐほどの情熱だ」と評している。彼自身は、台湾の山林しか愛していないので海外旅行には興味がない、と自嘲する。彼はその人生において長い間故郷を離れたことはないが、自身の制約を越えて異なる時空や物の間の通訳を担当し、より多くの人の感覚器官を呼び起こし、すぐ近くにある宝箱からこれ以上ない美しさを見出させている。

結局柴山に何回登ったことがあるのか、柯耀源はもちろん今では数えきれない。しかし一つだけ確かなことは、彼には分かち合える物語がいくらでもあるということだ。山林と原野を有する高雄における真の「野を愛する」人である。

(経典雑誌216期より)

 

 

 
NO.237