慈濟傳播人文志業基金會
誰も無常に勝てない
災難が起こるたび、私たちは誰も無常に勝てないことを深く考えさせられます。
苦難の多いこの世の中でも、強い意志を持って継続し、心を調整し、絶えず精進していけば、最後には全ての障碍を乗り越えられるのでしょう。
 
毎朝五時二十分から説法を聞き、六時二十分に聞き終わってから公園へ行って十分間運動をします。七時からのボランティア朝会にちょうど間に合います。このように素晴らしい一日が始まるのはとても幸せです。
上人様の説法を聞くことによって、私はいろいろな人や物事に臨む心の方針を教えられます。私にとって智恵の源であり、毎日の活力の源でもあります。十分に充電された携帯電話のように、翌日のためのエネルギーを満タンにしてくださいます。
二〇一五年十二月十六日の朝会で、證厳法師は、修行の方向は真実の法を求めること、それが目的地であると話されました。修行の日々が長くなると疲労を感じ、あきらめる気持ちが生じてきます。《法華経・化城喩品》に「宝処在近、向者大城、我所化作、為止息耳」とあります。そのため、導師は考えた末に大きな城を作り上げて、皆をしばらく休ませてから、続けて前へ向かって歩かせました。
證厳法師が話されていたように、人々は道が遠いため、疲れ果てて、前に向かって精進しようとの心は弱くなっていきます。お経を聞くことも同じです。かつて私は夜更かしした翌日はいつも疲れて眠く感じていました。そんな時はこんな言い訳をして自分に言い聞かせたものでした。「十分な睡眠を取れば元気を取り戻せるから、もう少し寝ても大丈夫」。しかし、これは怠慢の始まりです。そんな言い訳を言うよりも、継続するよう頑張らなければなりません。
證厳法師が解釈される《法華経》について書きとったノートは九冊にもなりましたが、実践することは少なかったのです。修行よりも気だるさが多かったのです。そのために、眠くなると、素早くノートをめくり、「仏心師志慈済路、堅固道心不退転」を読み、自分を思い出させるのです。怠けてはいけません。御仏に見習って、しっかりと地を踏んで、体で実行していくのです。
人間には清らかな仏性をもっているはずですが、「背覚合塵」となり、外の塵のような無明の境地と融合してしまったのです。御仏は衆生を救済するために、根気よく導いてくださいます。
今年の二月六日に台南で震災が発生しました。永康区にある十六階建てのビル「維冠金龍」が倒れ、私は援助に行きました。地球環境の脆さと危なさ、及び人生の無常を強く体感しました。一秒の差で二つの世界に引き裂かれました。
この地球では、どこで地震が起きるのか見当がつきません。事前に防衛し、無常に勝てる術は全くありません。正月を楽しみに家路に辿り着いた人々は、まさか地震の惨状に見舞われるなどとても考えられませんでした。
二十四日に、倒れたビルの鉄筋とコンクリートは徐々に整理されて、平地になりました。この世は幻のようです。百人を超える人々が無常に遭遇し亡くなりました。台湾各地から救援活動に駆けつけた英雄達は正月中にもかかわらず、家族団欒の大晦日に家を飛び出して、瓦礫の中に埋もれた命を助けようとしていました。まさに「この身は我のみのものならず、情けは社会全体に」を実践する菩薩行者の現れです。
私はやっと分かったのです。《化城喩品》は我々を迷いから悟りへの道へと導いてくれるのです。この世界では苦難が多いですが、仏陀が我々にいかに心を守り続けて、調和するか、その方法を教えてくださったのです。いわゆる「勤勉一筋で励めば難しいことはない」のごとく、あきらめずに精進をすれば、どんな困難にあっても解決できるはずです。
「去るものは去り、来るものは追いかけられる」。この幻の城のような世界での出来事は、山登りのようです。一階から次の階へと、一段から次の段へと登っていかなければなりません。願を立て、発心して、初心を常に保てるならば、清らかな心の風景が見えるはずです。
證厳法師がお話しになったように、「宝は近くにあり、目に見える遠くない処に……」なのです。
(慈済月刊五九一期より)
NO.237