慈悲の心をもって
苦難に耐え
見返りを求めずに奉仕する
自分自身を荘厳にし
徳を積めば
衆生にも利益する
五十年来の慈善訪問ケアをしていた初期から、「貧」と「病」は双子のようにお互いの間で悪循環しているように感じていました。ですから、貧だけを助けるのでなく病の人も助けなくてはならないのです。細長い花蓮、台東地区の沿線にはこれといった医療設備がなく、重病人や事故に遭った家族は天を仰いで祈るしかありませんでした。そのために私は命を尊重するという理念に基づき、一九七九年、花蓮で病院を建設することにしました。
当時台湾全島の慈済会員はやっと一万人、設備の完備した病院を建てるには、私は確かに力不足でした。土地や経費、人材はどこから工面をすればよいかなど、重ね重ねの困難がありました。
感謝に耐えないことは、各界の専門家たちの協力、慈済人の熱心な募金活動、その上苦労も厭わずに働いての献金などがありました。病院を建設した一個のレンガ、一袋のセメント、一本一本の鉄筋は、無数の人の心血と涙によって積み重ねられたものでした。そのことのすべてが今でも私の胸に刻銘に刻まれています。
皆の志によって、三年を予定していた工事が二年三カ月で完成して、一九八六年七月花蓮慈済病院がオープンしました。病院は予定より九カ月前に完成しましたが、人材の募集はさらに切迫し、中でも医師は著しく不足していました。多くの人は都会と隔絶されているような花蓮へ来ることを躊躇していました。
そんなとき、杜詩綿院長が一九八二年より、慈済病院建設を手伝って下さったことは感謝に耐えません。一枚目の設計図から、医事理事の成立、工事の手配に至るまで熱心に関って下さいました。一九八四年七月、私は台北へ行って花蓮慈済病院長になって下さるよう要請しました。当時台湾大学病院の副院長を引退して、臨床医学研究所所長になっておられましたが、肝臓がんと診断され余命三カ月と言われていました。院長は驚いて「師父、私の体には爆弾があるのをご存じですか?」と言いました。
私は「貴方の体に爆弾があるだけでなく、私にもあるのです。私の心臓病という爆弾はいつ爆発するか分かりません。ですから一日一日を大切に、その日に爆発しなければその日を大切に過ごすことです。多くのことを考える必要はありません」と言いました。
こうして杜院長は花蓮慈済病院の初代院長になりました。そして楊思標、曽文彬両氏ら諸人士の奔走の下に台湾大学病院と三年の教育合作計画を提携し、開業初期の人材が整ったのです。
当時、花蓮慈済病院を支援していた台湾大学病院から来た医師たちは、病院を我が家のように、苦労して三十年を過ごし、多くの人は今に至ってもその職場を堅く守りながら、慈済医療、教育体系や後輩の養育に力を注いでいます。
着実に歩いてきた三十年、花蓮慈済病院の現在は東台湾の医療センターになって、日夜人々の命と健康を愛で守って、多くの患者や家族の人生をも変えています。
「三十にして立つ」と言われますように、花蓮慈済病院は成熟して経験豊富な壮年期に入りました。花蓮慈済病院に続いて、玉里、関山、大林、台北、台中の慈済六病院は一家族のように、互いに協力して世の衆生に奉仕しています。
心を正し行い正して
慈悲を以て生を護る
衆生が睦まじくなれば
いつも吉祥
仏陀がいらした時代のインドの夏は雨天の日が多く高温多湿で、出家僧が裸足で森林を歩いて托鉢に出かける時、小さな生命を踏んだり、毒虫に噛まれたりします。生霊を護るために、仏陀は旧暦の四月十五日から七月十五日に、「夏安居」と定めて、この期間に僧衆は心静かに法を聴き熱心に自習し、国王と人民の供養を受けて衣食住を満たしていました。
三カ月の「夏安居」の期間に、修行者は一心に修行して智慧を増し、外では喜んで供養する護持者がいました。七月十五日の解夏日に、仏陀が弟子たちの修行が終わったことを喜ばれたので、この日は「仏歓喜日」になっているのです。
しかしながら中国人の伝統的な風習として、旧暦の七月は「拝門口(鬼のために門を開ける)」と言っていろいろの禁じ事があります。そして平安祈願に、鶏や豚、魚の三性または五性の供物があの世から解放されてきた生霊を祭るために盛大に捧げられます。無数の鶏が逆さに吊されて殺され、豚なども殺されます。動物たちが屠殺の間際に感じる恐怖の怨念が想像されます。
仏陀の時代に生きとし生きるものを護る慈悲の理念は、現代では殺傷して「拝門口」の祈りで平安を求める迷信に変わったことに考えさせられます。宗教は人生の宗旨であり終生の教育です。正しい宗教とは天地衆生の平安を願い、生贄を供えるのでは平安は求められません。
平安はどこから来るのでしょうか? それはただ仏陀の教法を奉じて、人としての本分を守ることです。在家においては父母に孝行し、兄弟、友を愛し、外では善行奉仕して、人々と親密にすることです。そして人生の方向を正しく見極め、生活は法のように心正しく、行いが正しければ天地は穏やかになります。人々が善に向かい、社会が平和なら日々是好日、毎月が吉祥月になります。
迷う人を正しい道に導くために、仏法では正知正見を唱えています。慈済は毎年の七月を「吉祥月、孝行月、歓喜月」と定めて斎戒します。生きとし生けるものを護り、大地を愛するよう提唱しています。
今年は中正記念堂の広場で三場の祈福会を催して、諸長老と多くの法師が壇上で《父母恩に報いる難の経》と「世尊白骨礼拝」の一段を披露してくださったことは感謝に耐えません。
仏陀が僧衆を連れて南へ向かわれていた途中で、積み重ねられている白骨に向かって五体倒地の礼拝をされました。阿南はそれが理解できずに合掌して「仏陀は天にまします人の導師で、四生慈父、衆人が敬うお人ですのに、なぜ白骨を拝みになられたのですか?」と聞きました。
仏陀は「衆生の累劫累世はお互いが父母子女でした、目の前にある白骨を生生世々の父母として敬い礼拝をしているのです」とお答えになりました。
幕が開くと威儀をただした法師たちが整然とした歩調で、皆の先に立って出ると、その後から音楽に合わせて現代版の《父母恩重難報経》を手話で大勢が演じていました。母親の懐妊から子の出生、両親はその子を慈しみ大事に育て、求学立業に至るまで育てましたが、父母を悩ます子に成り変わって、寄る年波の両親は悲しんで門口で待つばかり……。
一幕一幕は現在の世相と、社会の生態を舞台上で如実に表現していました。これが観衆を父母に対する恩に導くよう願っています。荘厳な法会の舞台は観衆に、仏法の真、善、美を披露していました。この吉祥、感謝、孝行の理念が「拝門口」に変わって、人々を善に導くとこの世は自然に平穏になります。
天地は急を告げ
無常は忽ちのうちに
人心の覚悟は
危険を平穏無事と化す
若い時に読んだお経の中で「大三災」の火災、水災、風災は一度また一度と猛烈になって、世間のすべての物体は悉く滅すとありました。その時は、こんなことありうるだろうかと思っていました。しかし、この幾十年の世の中を見ると、地、水、火、風の四大不調による様々な災禍が起きて、確かなことと思うようになりました。
人心の欲望と尽きない享受の追及、無限の開発に破壊され、建築物はますます多く高く建てられ、セメントは大地を覆っています。利益の追求に工業は発達、商売は発展し惜しみなく生態を破壊しています。それに大自然はたまりかね気候は極端になり、豪雨、日照り、森林火災といった災難が頻繁に起きて人類の生存を脅かし、無数の人が苦難を受けています。
天地が急を告げると無常は瞬時に起きます。人類は何を争い、何を気にかけることがあるでしょうか? 事業をさらに大きく、もっと多くのお金をと望みます。しかし地球が痛ましく傷つくと人類の平穏と幸福は望めません。
天災は予防できないのではなく、その鍵は人心にあるのです。人心が善に向かうと世を救う妙薬になります。虚ろな幻覚の中に生きて、宝をつかもうとする夢を抱いてはなりません。己の分を守って謙虚に、正しいことは真面目に、やってはいけないことは絶対にやらないことです。やってはいけないことは損害のもとで、皆が天を敬い地を愛すれば地球温度を下げる機会があるのです。
斎戒素食は善念を培い、地球温暖化を防止し、また自分の健康を守ることができます。南アフリカのダーバンの十歳の少女朱儀文は、母なる大地が傷ついているのを心配して、従姉妹姉の蒋郁芯と素食を勧めるしおりを作りました。
二人は作り終わると勇敢に、地域内の一軒一軒の門をノックして、しおりを配りました。一日の中で二十二世帯が賛成してくれましたが、一日でも肉がないと我慢できないと断る人もいました。断られてもあきらめず、幼いながらも志堅く続けていました。
子供たちができるなら、大人たちにもできます。お互いが善の方向に向かって手を繋ぎ走ると、人心は調和して天地も調和すると、危険は福にとって代わることができます。
愛の心を啓発すれば
良能は無限
真理に務め励むことは
安心の道
中国大陸の蘇州呉江区に住む沈林虎は六十歳、幼い時に小児麻痺を患い両足が委縮して、外出するときはスケートボードを使って行動しています。養父母が亡くなってから一人暮らしになり、二○○四年から慈済の現地ボランティアが世話をしています。ボランティアは訪ねる度に彼の生活の糧である畑を耕したり、草取りや収穫の手伝いなどをしています。十年来の付き合いで彼の生活は変わりませんが、心境が大分変わってきました。
彼は慈済人が環境保全を推進していることを知ると、村を回って流暢に環境保全の意義について説明しました。村人は資源回収とは物を大切にすることによって大地を護ることを理解しました。そして彼は自宅の前庭を資源回収所に提供し、ボランティアに参加する人も出てきました。
隣の八十歳になる范おばあさんは、一人で車椅子に乗っている中風の六十歳の息子の世話をしていて、親子とも毎日しかめっ面で気が晴れませんでした。彼は親子に家を出て一緒に回収所に行くことを勧めました。息子も慈済人の勧めと励ましで、親子は一緒に資源回収所へ出て心が晴れたと感謝しています。
沈林虎は貧しいながら行い正しく心は安らかです。彼の「安心の道」は物質になく法であり道理です。障害があっても、愛が啓発された後の心は大空のように広く、村人たちを環境保全に勧誘する能力を発揮しています。
人々に利益するとは、人々のために製造する商業利益ではなく、人々の煩悩を取り除く心霊財富の蓄積です。心も行いも正しく心身ともに健康平安であれば社会は幸福です。
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《法華経.法師品》に「大慈悲為室、柔和忍辱衣、諸法空為座、処此為説法」とあります。これは慈悲の心とは仏心であり、広大無辺一切を包容するということです。慈済人は「仏の心を以て己の心とす」と発心立願したのですから、大慈悲心を発揮して苦難の人々に寄り添い慰め、抱擁して憂愁と恐怖を取り除いてあげなくてはなりません。さらに進んで人と人との間は益友、善知識でなくてはならないと導くことです。
たとえあなたが良いことをしても、善意のない人があなたに悪口を言ったり侮辱したり、そればかりか刃物や石であなたに危害を加えたらどうしますか? 衆生を済度するということは、どんな人でも見放さないということです。「柔和忍辱」を以て屈強な衆生を抱擁し、貪、瞋、癡、慢、疑を降伏させると悪を防止することができるのです。
見返りを求めない奉仕とは誰に布施したか、誰が布施を受けたか、どのくらいの物を布施したかにこだわらないことです。澄み切ったこだわりのない清い心で、前足を地につけたら後ろ足を地から放しましょう。名利を貪らず、一心に大衆に利益して、どんな誹謗や称賛にも動揺しないことです。
言うまでもなくどんなことに遭遇しても、心に「大慈悲」を抱くことです。どこにいてもどんな逆境にあっても「柔和忍辱」を身から離しませんように。事が過ぎ去れば「静寂清聴」に戻ります。「慈悲、忍辱、法空」の三法を日常生活の中に活かして、自利と利他に努めますように。
皆さんが自分や衆生の心に愛の種を蒔いたら、心を込めて耕し、慇懃にそして怠りのないように願っています。
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