 |
台風一号が台東県太麻里郷香蘭村に上陸した。台風が過ぎた後、太平洋に面したその集落の住居や畑は変わり果てていたが、相変わらず、青い空と紺碧の海に向かって静かに佇み、美しい姿を見せていた。
(撮影・黄筱哲)
|
 |
台風一号は台東に大きな被害をもたらし、県全体の農業で八億元の損害を出した。とくにシャカトウ農園の損害は甚大で、農園全体に枯れ枝や葉、果実が散乱し、農民は泣くにも泣けなかった。(撮影/楊舜斌)
|
 |
台風が過ぎても雨が降り、低い土地には水が溜まったままだ。損壊した家を目の当たりにしながら、太麻里郷香蘭村の住民は気を取り直して清掃に励んだ。(撮影/蕭耀華)
|
 |
台東県太麻里郷香蘭村の家の屋根は吹き飛ばされ、至る所めちゃくちゃな状態に。慈済ボランティアが村民を助けて、清掃した。被災地が早く復興するよう祈る。(撮影/楊舜斌) |
強い台風一号は台東県太麻里郷香蘭村に上陸し、収穫間近のシャカトウ農園が一晩で大きな被害を蒙った。果樹を掘り起こして新たに植えたとしても収穫できるまでには三年から四年かかる。農民は堪えきれず涙を流したが、隣人同士互いに助け合った。
強い台風一号は七月八日、台東県太麻里郷香蘭村に上陸し、中心から半径二百キロの暴風圏と共に、六十メートルの最大瞬間風速を記録した。勢力が非常に強く、「悪魔台風」と恐れられ、この六十年間で唯一、第一号で勢力が非常に強く、かつ上陸した台風である。
収穫間近は台風が最も怖い
人間と土地は切っても切れない関係にある。水源地から水が流れ、灌漑によって農業が発展する。今回、最も被害が大きかった香蘭村は太麻里川沿いにあり、天然資源に恵まれ、シャカトウ(釈迦頭。南国のフルーツ。釈迦の頭に似ていることからこの名前がついた)の生産が盛んで、豊富な生産量と安定した価格で生活は豊かであった。
ただ一番怖いのが天災である。毎年八月、九月の収穫期は台風の季節でもあり、収穫前に全部吹き飛ばされたり、川に流されたりする。七年前の台風八号は記録的な被害をもたらしたが、今年の第一号台風も容赦なく、成熟し切ってない果実を吹き飛ばしただけでなく、枝も折れて木は枯れてしまった。復元すると言葉で言うのは簡単だが、掘り返して新たに植えても、収穫できるまでには三、四年はかかる。
農業委員会が七月十二日に発表した災害後五日目の統計によると、台湾全土の農業、林業、漁業、牧畜業の損失は十一億元を超えた。とくに台東県の被害は大きく、八億四千万元に達した。太麻里の程正俊郷長によると、損害を蒙った農地は千ヘクタールを超え、その中でもシャカトウが六百四十二ヘクタール、「荖花」と「荖葉」畑(檳榔と一緒に咬む 葉の一種)が二百六十三ヘクタールで、損害は甚だしい。
この二種類は太麻里郷の農民にとって生計の糧となる農作物である。投資した資金は水泡に帰し、生活のために借金する人もいる。「若者がとくに心配です。彼らは故郷を離れて西部の都市で働いていましたが、収入が少ない上に物価が高かったため、故郷に帰って農業をしてみようと思ったわけです」と程正俊が言った。若者が故郷に戻って抱いていた夢は天災によって打ち砕かれ、今後も故郷に残ることができるかどうかは誰にも分からない。「若い人が百万元(一万元は約三・二万円)の資金を集めるのは容易いことではなく、家族の年配者が支援したり、土地を担保に借金できなければ、あきらめてしまうでしょう」と農業を営む黄玄忠が言った。太麻里郷では何人かの若者が故郷に戻って来て、栽培に成功している。彼らは以前は都会で働いていた。月給が二、三万元だったため、ほとんど貯蓄できなかった。故郷に戻ってからは支出が減り、親と一緒に農業するようになり、次第に独り立ちできるようになった。
黄玄忠によると、香蘭村では帰って来て五年にしかならない若者の年収が百万元を超え、故郷で結婚して子供を設けた。「努力しさえすれば、神様は応えてくれ、わずかながらでも裕福になれるのです」
苦労して育てた果樹園が
一度に流されてしまった
努力してきただけ収穫が得られるわけではない。黄玄忠は十年間努力してきて、そのことをよく知っている。
シャカトウには「パイナップルシャカトウ」と「大目シャカトウ」があり、両方とも非常に手間がかかる。「パイナップルシャカトウ」は毎年の暮れに一回収穫するが、主に輸出用で値段も比較的高い。「一ヘクタールで百万元の収入になります。台東では皆『八百壯士』と呼んでます。すなわち、年収八百万元ということです。しかし、シャカトウの木が倒れたら、その後の三年間は貯蓄で生活しなければなりません。というのも、復元させるのにそれだけ時間がかかるからです」
「大目シャカトウ」の方がここでは一般的で、一年に二度収穫でき、一ヘクタールで五十、六十万元の収入になり、二回の収穫で百万元以上になる。しかし、同じように台風で損害を受ければ、やはり三、四年は収入がないので辛抱しなければならない。
シャカトウの栽培過程における農作業は非常に手間がかかる。除草、肥料撒き、スプリンクラー散水による灌漑、苗床から農園への植え替え、台風への予防、冬の枝切りなど農民は年中無休と言え、灼熱の夏には日が昇る前に起床し、朝の四時から働いて八時か九時頃に一度休憩する。夕方に再び畑に行き、夜の八時頃に帰宅して夕食を取る。「農業にはそれなりの規律がありますが、楽ができるかどうかは神様次第です」と黄玄忠が言った。
この八年の間に、二〇〇九年の台風八号、二〇一二年の台風九号、今年の台風一号が次々に襲い、毎回、農民は心を痛め、息も絶え絶えになった。農業に携わって三十年以上になる香蘭村民の詹益賢は天候に左右されるこの生活に対して複雑な気持ちを持っている。
二十年前、彼は妻と桃園の繊維工場で働いて貯めたお金を資金に、台東県知本川の岸辺でスイカの栽培を始めたが、台風ハーブで畑ごと流されてしまった。「一回で止めました」と言う。隣の畑の主は台風が来る前にトラック二台分を出荷したが、残った未収穫の分は全部ダメになり、夫婦が抱き合って泣いていた。彼はその夫婦に「私は一つも出荷できなかったけれど、涙なんか流しません」と言った。
六十歳になる詹益賢は溜め息まじりに言った。台風一号は記録的な強風だった。一家四人の大人が力を合わせて窓や扉を押さえたので、家は飛ばされなかったが、それでも変形してしまった。彼と二人の息子とで栽培して来た荖葉畑は三分の二がなぎ倒された。残りの三分の一を六、七人で傾いた蔓を一株ずつ植え直し、枯れる前に間に合うよう四日間で完了させた。枯れずに育つかどうかはまだ分からない。
やるべきことは山ほどあるが
まずは隣人の手伝いをする
次兄の畑の隣で栽培している詹益森は同様に被害が深刻で、彼の六千平方メートルの荖葉畑は木が全部なぎ倒され、それらを救う方法もなく、放っておくしかなかった。「見れば見るほど悲しくなるので、見ないようにしています」と言う。
極度に気が滅入っていた時、村長がやって来て、村民の先頭に立って慈済が行う地域の清掃、復旧に協力するよう要請してきたので、即座に引き受けた。皆からチームリーダーに推薦された彼は仕事の振り分けもてきぱきと行い、各世帯の状況もよく分かっていたので、清掃作業も非常にはかどった。
皆で力を合わせれば、大体一世帯の清掃は三十分で終わる。ひどく被災し、より多くの物を運び出さなければならない場合でも、一時間半あれば清掃が終わった。
「私たちは皆被災者です」と詹益森が言った。一致団結して互いに助け合って作業すれば、いつまでも落ち込んでいることはない。また、外に出て、他の人も同じように被災しているのを見れば、自分だけが最悪ではないのに気づく。彼のように、清掃に参加すれば、瞬時にして気持ちが少し和らぎ、気が晴れてくる。
村民は懸命に地域復旧に力を入れ、香蘭村はさざ波が立ったように、清掃する人がどんどん増え、八十三歳のお爺さんや六歳の子供まで参加した。
自分を助けてから人助けする
慈済家庭訪問ボランティアが大規模な家庭訪問をして人手が必要になった時、すぐに清掃隊への支援要請を思いつき、思いも寄らない効果が出た。
七月十日から、慈済ボランティアが村長と一緒に皆に呼びかけて、「親が親を、隣が隣の人を助ける」という清掃活動に参加する。参加者には見舞い金を支給するだけてなく、被災した家庭にはさらに一万から三万元の祝福金を配付した。皆さんが一日も早く生活に戻れるように願った。
自分を助けてから人助けする。香蘭村の住民は新旧二つの地区を合わせると八百人以上いる。昔は異なった地方から来たか、別の民族に属していた人たちである。今は同じ土地で皆で災害に立ち向かっている。団結して助け合い、他人を支援して初めて一緒に災害を乗り越えることができるのだ。
何年か後にはここは美しい発展した土地になっているかもしれない。蘭の花のように再び香りを放ち、それが限りなく広がってゆくだろう。
|