慈濟傳播人文志業基金會
癌の告知を受けた後  自分に祝福を送った
四年間、様々な学校で千回の環境保全の宣伝講演をした。
一度癌を患った邱淑姿にとって、毎回の講演は体力への試練だった。
しかし、彼女は、それができるのは幸福であり、自分への最大の祝福だと思っている。
「千回終わったら、その続きがある」
 
 
「一秒は長いのでしょうか? 口の欲を満足させるために、世界では一秒に千七百七十六匹もの家畜が食卓に載り、十六万個のビニール袋が製造されています」。午後、邱淑姿は、環境保全宣伝の要請を受けた小学校で、生徒に人類が大自然を破壊しているビデオを見せて説明した。
 
「可愛い子豚」「地球が熱を出している」「ホッキョクグマの住む場所がなくなった」「アルバトロスは可哀想、お腹の中はゴミだらけ」などのシーンに子供たちの目は釘づけになり、言葉を交わしていた。
 
彼女は子供たちに自分の意見を発言するよう促した。「地球が病気になったら、私たちは地球に何をしてあげたらいいと思いますか? もしも一人ひとりが少しの時間でもいいから地球を助けてあげたら、いろいろなことが変わってきます」
 
その後熟知している校内をゆっくりと散策していると、湿った土の匂いが鼻をついた。太陽に照らされた朝露が草陰でキラキラと輝き、ヨウジュの大木は大きく茂っていた。ぼんやりと過ごした学生時代、職に就いてから生活に憂いはなかったが、人生の意義を考えていた。幸いにも慈済に巡り合って彼女の人生が救われ、慧命までも救われた。
 

ガン手術をする前に遺書を書いた

 
二○一二年七月、邱淑姿は台中慈済病院で精密検査を受けた結果、呉永康医師から胃に悪性腫瘍があることを告知された。彼女は化学療法を受けたがあまり効果がなく、手術しなければならなかった。人生で様々な出来事があったが、死の恐怖に対してなす術を知らなかった。
 
彼女は仏法を篤く信じ、生老病死の自然法則も理解していた。過去に自分が書いた自分の人生のシナリオを端然と受け入れ、死を恐れなかったが、「二年も生きられるだろうか? 年配の両親にどう説明すればよいか?」という考えが頭の中をめぐった。四十九歳の今、「もう少し長く生きたい。親に看取られたくない。そして、生命の良能を発揮する時間が欲しい」と渇望した。
 
手術する日の朝、硬い胃カメラ検査台に、不安な面持ちで横たわっていた。看護師は口に麻酔薬を噴霧してから「リラックスしてください。私の合図でのみ込んでください。胃カメラの管が入って行きますから怖がらないでください。のみ込んでからは唾を飲み込まないようにしてください。普通に呼吸してください」と言った。
 
黒くて太いカメラと薬剤を噴霧する管が口から喉を通った時、気持ち悪くて立て続けに嘔吐の反応が起き、涙が出た。心臓が今にも飛び出しそうな感じで鼓動が早くなり、怖かった。医師と看護師がなだめる中、無事に終わり、腫瘍の位置に印をつけることができた。
 
病室に戻っても彼女は胸をこすっていた。手術中に心臓が止まったらと思うと気が気でなく、生まれて初めての遺書を夫に書いた。携帯電話と預金カードの暗証番号、お金の置き場所、連絡すべき友人知人の名前、臓器提供の志願、慈済会費の支払い方法などを書いて、徐々に落ち着きを取り戻した。
 
邱淑姿はペンを置き、窓の外にそびえる大木のアカギに目を向けた。黒っぽい太い幹に突き出した若い枝から若葉が生え、鳥がさえずっていた。横の同じくらい高さの木は今にも枯れて生命が終わりそうだった。彼女は心に願をかけた。「今回の病気を乗り越えたら、必ず一心に慈済で奉仕する。もし、ダメだったら、早く逝って早く戻ってくる」と。
 
手術で胃の三分の一を切除され、七日間、水も食事も禁止された上、体には点滴、導尿、経鼻、引流の管がつけられた。続けざまの注射も痛かったが、一番苦しかったのは経鼻胃管が喉につかえて、重い流感の時のように呼吸困難になったことだった。本当に辛かったそうだ。仏陀の言われた人生八苦の中で病苦が最たるものをつくづく体得した。
 
●夜間、邱淑姿は台中北屯東新公園のリサイクルステーションで灯りの下で回収物の分別をしていた。彼女の手は子供の教育に使うだけでなく、大地をも守っている。
 

苦難は祝福の化身

 
手術後、幸運にも健康を取り戻し、毎日、太陽を見ることができるようになった。彼女は生涯の計画を変えて、五十歳で教職を離れ、ボランティアの道に専念することを決意した。
 
逆に彼女の手術を担当した呉永康医師が二○一四年八月、主動脈剥離を起こし、手術室の更衣室で亡くなった。「生命の無常」という意味が彼女に猛省を促した。それからというもの、「生命は蝋燭のように虚しく、無常は瞬時に現れる。生きているのは当たり前ではなく、それ自体が奇跡であり、感謝しなければならない」といつも自分に言い聞かせている。
 
退院した日、まだ体力が回復していなかったにもかかわらず、彼女は慈済の会費集めに出かけた。また、一週間もしないうちに彼女はコルセットを着けてリサイクルステーションで回収資源の分別をしていたので、周りの人が心配したが、「ボランティアの仕事は私の趣味なのです」と彼女は答えた。以前は人生は長いと思い、いつも夜更かししてテレビを見ていた。しかし、病気してからは人生の無常を知り、時間はダイヤモンドのように貴いことだと悟った。
 
ある日、慈済経蔵を歴史に書き留める仕事で花蓮の精舎に帰った時、徳棨師匠が彼女の健康を気遣って「ガンは天からの授かりもの」という観念を与えた。軽いその一言は彼女の目を覚まさせ、苦難は祝福の化身であり、逆境に遭った時は感謝して、成長の契機とすることを理解した。
 
彼女は奉仕のできる因縁を大切にし、ボランティア活動に参加したり、早朝の開示や助念(死者の成仏を祈り八時間念仏を唱える台湾の風習)、告別式などに参加すると共に、慈済の法親 (同じ仏門下生)たちに自分の経験を話して精進するよう励ました。
 
病院ボランティアをしている時、無常も生命力の強さも目にする。かつて癌患者であった彼女には、病気の苦しみや病人の気持ちが分かり、にこやかに「苦しいのも一日、楽しいのも一日。楽しい方を選びましょう」と励ます。経験者は説得力があるので、患者も簡単に聞き入れ、勇気と挑戦力が沸き上がってくる。
 
今、彼女は太陽のように病室の隅々を照らし、多くの人に自信と勇気をもたらしている。四十五キロの体重でしかなくても、しっかりと地に足を下ろし、一心にボランティアしている姿とその熱心さは人々に深い印象を与えている。
 
●邱淑姿は朝の開示「法の香りに浸る」でノートに筆記していた。仏法の潤いのお陰で癌と診断された時も平然と受け入れられたことに感謝すると共に、時間を無駄にすることなく、毎朝「開示」を聞いた。仏法は深く意識の中に入り、来世も引き続き仏法を聞いて修行できる、と彼女は信じている。
 

教師は生きた静思語

 
邱淑姿は彰化の碑頭郷にある農家で、六人兄弟の五番目に生まれた。勉強好きの彼女は大学卒業後、公務員を経て教職の道に進んだ。
 
一九九一年に結婚した。共働きだったため、家に帰ると家事に追われたが、夫はソファに心地よく座って食事を待つだけで、家事は女性の仕事と決めていた。しかし、邱淑姿にはそれが我慢ならず、家庭は共有のものだから、家事を分担するのが当たり前だと思っていた。ましてや彼女は働いているのである。価値観の違いから、日常的に夫婦の間に意見の口違いが起きていた。
 
彼女の同僚がよく「慈済月刊」や「慈済道侶」など慈済の出版物に載っている様々なストーリーを話して聞かせ、いつも感動した。やがて自分も慈済会員になり、静思語教育や慈済の活動に参加するようになった。
 
一九九五年、慈済歳末祝賀会に参加して、「あなたと手を繋いで」の歌を聞いた時、瞬時にして悟った。「苦痛は自分の執着からきており、観点を変えて、もっと夫の長所を見て褒めてあげ、性急に口論するのではなく、もっと穏やかに理を通すべきだ」と。やがて夫婦の間で対立することがなくなった。
 
子供がなかったため、同僚や親しい友人が可愛い子供の話をしている時、いつも残念な気持ちになり、気落ちしていたが、慈済に出会ってからは考え方が変わった。「子供がいない分だけ心配事も少ないし、より多くの時間をボランティア活動に使って、全身全霊でクラスの子供たちに愛を注ぐことができるのだ」と。
 
彼女は朝の五時に起床する。大愛テレビ番組の「静思晨語」が彼女の心を潤す法水となっているため、絶対見逃さない。そして、朝食を済ますと、早めに出勤して一日の教職生活が始まる。彼女は担当クラスで静思語教育を行い、生徒に物語を出題して皆で討論することで、宝探しのような時間を作っている。
 
その過程で彼女はあることに気づいた。「教師とは『活きた静思語』であり、自分が放つ光であらゆる智慧を灯し、生徒に慈悲と愛を教えるべきだが、自分はできているのだろうか?」。その時に彼女は素食することを決心し、すでに二十二年になる。
 
一九九七年、邱淑姿は慈済が小学生のために開いた夏季キャンプに参加した。一枚一枚エチオピア難民支援の写真が目の前に現れ、この世の地獄のように飢餓で生命が消えようとしていた。彼女はそれを見て平静でいられなくなり、自分の歩調を速めることを決意した。「早く会員を集め、養成講座に参加し、慈済委員になれば、もっと多くの仕事ができ、人助けができるのだ」。三年後の二○○○年、彼女は第一期の教師懇親会の教師と慈済委員の認証を受けた。
 
邱淑姿は何度も夫を伴って静思精舎を訪れ、夫は精舎の静寂に惹かれた。ある時、彼は、野良犬で汚かった「大宝」が精舎で生活し始めた話を徳偌師匠から聞いた。「大宝の誠実さと他の小動物と一緒に仲睦まじくしている光景が赤子のようだという話を聞きました。人と人の関係も大宝のように単純で良縁が結ばれるべきだと感じました」。彼は大宝が体にかけていた袋に寄付金を入れて祝福した。
 
「夫婦の不仲が元で仏法と慈済に触れ、考え方を変えたりプラス思考することを学びました。そして、夫も変わり、慈済委員になりました」と邱淑姿は一切の良縁に感謝した。
 
●学校のサークル活動で邱淑姿は、生徒たちに小さな黒点のある白い紙を配り、生徒たちに「どうしたら、その汚点を利点にできるか?」想像力を働かせるよう問いかけた。(撮影・邱百豊)
 

地球にも自分にも良いように

 
癌は生命の台風のようなもので、彼女は癌を患った原因を考え始めた。個人の生活習慣以外に、環境と何らかの関係があるのではないだろうか? ある報道の中で、癌と環境汚染には密接な関係があり、地球の温暖化、気候の変動が地水火風の四大元素の不調をもたらしているために、人類が病に罹るリスクが増しているという話があった。病気の苦痛は他人が取って代わることはできないものでもある。
 
二○一三年十二月、彼女は「慈済環境教育教師講習キャンプ」に参加し、終了前の感想発表会を前にして、「何かほかにもやるべきことがあるだろうか?」と考えた。環境保全の専門家である陳哲が千百二十四回の環境保全宣伝講演を行っていることに励まされて、彼女は皆の前で「学校で環境保全を広め、千回の講演をします」と立願した。彼女は環境保全教育を若年層から始めると共に、もっと多くの人がそれに参加することで、自分だけでなく人類全体が救われると考え、地球を愛していこうと決心した。
 
彼女は勤めていた新興小学校を皮切りに、積極的に教師懇親会や知り合いの教師に、各クラスで講演させてもらえるよう頼んだ。
 
最高一日に六回も講演し、聴衆は五百~六百人から二十人あまりと様々だったが、要請があれば、たとえ聞き手が一人でも気を悪くすることはなく、一人でも多くの人にその観念を広めたいと思っていた。
 
一般の人には環境保全の話は重苦しいものと思われがちだが、彼女はゲーム感覚で体験してもらったり、短い物語や生活体験を話して聞かせている。ある日、彼女は話の材料にペットボトルや使用済みの電池、毛布などがいっぱい詰まったスーツケースを持ってきて見せながら、再利用するために資源の回収をするよう大衆に呼びかけた。
 
鄭淑兒先生は彼女の励ましで、教師懇親会の教師から慈済委員の養成講座を経て委員になった後、癌であると診断されたが、邱淑姿と同じように環境保全教育者資格養成講座に参加し、環境保全を推奨することを立願した。「願を大きく持って目標に向かって進むのです。すぐには邱淑姿先生のように勇猛に精進できなくても、千回に向かって頑張ります」と鄭淑兒先生は自信たっぷりに彼女の心願を語った。
 
●一一九消防の日を前にして、台中市北屯区のボランティアは第五支局文昌派出所、文昌消防署傍で苦労の多い警察や消防人員に感謝した。邱淑姿は住民に正月を祝う掛け軸に書かれた静思語の意味を紹介していた
 

四年間で千回の環境保全推奨講演を達成

 
邱淑姿は学校から学校へと講演を重ね、十回から百回、さらには千回になった。彼女は教師であるが、大勢の人の前ではやはり緊張した。しかし、壇上に上がってからは順調に講演を終えることだけに集中することで、緊張を推進力に変えた。
 
彼女は少ないながらも大衆の反応から善の循環を見て取ることができた。「教師が生徒たちに生ゴミを減らす指導を行なっている」「ある教師が衣類を買いたい欲望を抑えて買う回数を減らす決心をした」「教頭先生が一日に一膳菜食すると発願した」「学童保育クラスの生徒が教師に節水を提案した」、「生徒たちが自主的に教室でエアコンを使用しないと多数決で決めた。気候の温暖化で北極熊の住む場所がなくなるから」といった声が聞かれた。
 
毎回の講演は邱淑姿にとって体力への挑戦でもある。すぐに声が枯れたり、長い時間立っていると足が疲れて痺れてくるが、それを克服しなければならなかった。しかし、いつもと違った仕事をすることが休養になると彼女は思っている。それができることが幸せなのだから。彼女は講演やリサイクル活動を一生懸命こなすのは、自分への最高の祝福だと思うからである。体は疲れても気分は爽快だからである。
 
しばらくして、生徒たちに会った時、一人の子供が遠くから寄ってきて、「先生に会いたかった!」と言った。どうして?と聞くと、彼女の手を取って「ママに会いたいのと同じ!」と天真爛漫に答え、笑顔で走って行った。「私は先生のファン!」と言って尊敬する眼差しで彼女を見上げ、恥ずかしそうにサインを求めてくる子もいた。その時、彼女はあらゆる苦労が幸福感に変わった。
 
彼女は子供たちの後ろ姿を見て、祝福した。自分には薬師如来の願があって清らかな瑠璃の光に照らされ、生命がより素晴らしいものになることを期待した。大地と心身の環境保全を広めるだけでなく、子供たちの心に善と愛が宿り、一人ひとりが人生の春を謳歌して希望に満ちることを願った。
 
癌から全治した後、彼女は千回の環境保全宣伝講演を立願し、自分が火の付いた蝋燭のように光り輝くことを願うと共に、皆が一斉に蝋燭を灯して世界をより明るくすることを期待した。もちろん蝋燭は風に煽られて消えることもあり、それが人生の無常である故、縁を逃さず慈済でボランティアするのである。
 
二○一七年十二月十一日、二回講演した。台中文心小学校で二十数名の生徒に講演した後、ついに四年前に願をかけた「千回の環境保全宣伝講演」を達成させた。終わった後、台中四張犁中学校で新たな「千回の環境保全宣伝講演」の願を開始した。
「千回の願は自分の目標ですが、最終目標はいつまでもその観念を広め続けることであり、千回が終われば、また、千回続けるのです」と彼女はきっぱりと言った。
 
●台中の慈済ボランティアが苗栗三義にある慈済志業パークで冬茶の摘み取り作業を手伝った。邱淑姿も一心二葉を摘み取っていた。彼女は四十九歳の病後に教職を退職したが、社会奉仕の足を止めることはなく、多くの学校で講演し、幼い苗たちが素晴らしい人生の春を迎えられるよう導いている。
(慈済月刊六一六期より)
NO.266