慈濟傳播人文志業基金會
台湾の非医療人員による第一線での支援 鄭巧鈺
人道支援は異なった領域の専門家の分業で成り立っている。
鄭巧鈺は「国境なき医師団(MSF)」の非医療人員として、
戦火の下で人々を生き存えさせるために、体の血液のように、
前線の任務が滞らないようにする仕事をしている。
 
 
医療による人道支援で私たちは何ができるだろうか?三十八歳の鄭巧鈺は医師でも看護師でもないが、前線支援で世界各地に足を運んでいる。彼女は「国境なき医師団」が台湾で初めて募った非医療人員で、今は台北事務所の責任者として台湾での広報と普及部門を担当すると共に、国際間の意思疎通役でもある。
 
思い返してみると、機会があって「 国境なき医師団」の医師による救援活動の話を聞くことになった時、その主人公は銃弾が雨あられと降り注ぐ中、火の中、水の中、患者を救う医療人員だと想像したのではないだろうか?実はその背後には実務的な団体が存在し、医療行為を支えているのである。
 
しかし、舞台裏の仕事がどれだけ大変かは知られているだろうか?鄭巧鈺は非医療人員としてどうやってそこまで辿り着いたのか?
 
彼女は台北生れだが、南アフリカ育ちで、二○○四年にイギリスの大学で会計学部を卒業した後、台湾に戻って会計事務所に勤め、二年間まともな生活をしていた。
 
ある日、彼女はテレビで「スーダン政府軍がある特定の部族を攻撃している」というニュースを目にした。影像を通して自分が育った土地でこれほど多くの難民が迫害され、救援を待っていることを知った時、自分の得意分野で社会のためにできることはあるだろうか?と考え始めた。
 

アフリカに戻り、第一線に向う

 
一つのニュースが鄭巧鈺の心を動かし、自分の存在と行きたい場所を改めて思考させた。彼女は情熱だけで、余り深く考えずに辞表を出し、難民のために何かをする機会を模索した。
 
その時、彼女は友人が台湾路竹会に随行してソマリアで施療に参加し、非医療人員ボランティアの随行員を一人必要としていることを知った。彼女は直ちに申し込み、三週間の「第一線」への初体験が実現した。
 
施療であるため、一行は様々な機器を持参して村から村へと渡り歩き、各地で診療所を一から設置し、終るとまた片付けて次の村へ行くというパターンだった。鄭巧鈺は設置を手伝うだけでなく、医療関連外の庶務を担当した。例えば、現地の患者を受付に案内して番号札を渡し、血圧や体温の測定、薬の配付などをした。一方、現地の医学生は施療に随行し、通訳しながら施療活動を実習とした。
 
毎日、施療が終る時、全ての人員は疲れ果てていたが、現地の学生は休むことなく勉強し、筆記を整理した。「確か、施療が終ると直ぐに期末試験だと言っていました」。あのような貧しい環境の中でチャンスを逃さず学習していた学生の姿が鄭巧鈺の心を励まし、引き続き第一線に向うことを決意させた。
 
路竹会とは「台湾路竹医療和平会」のことで、発起人である歯科医の劉啟群医師が運営し、すでに二十年を超える専門の施療団体である。医療人員とボランティアは毎月、台湾の辺鄙な地方や部落で施療を行っているが、毎年、三回から六回、施療団を結成して緊急を要する国へ奉仕に出向いている。
 
ソマリアから台湾に戻った後、鄭巧鈺は直ちに路竹会に入会し、正式なメンバーとなった。その後三年間、国内外の村落や異なった状況の地域を訪れ、世界各地の人に施療を行った。それにより第一線を支援する路竹会で彼女は安定した基盤を築くと共に、「国境なき医師団」(MSF)と深い縁を結ぶことになった。
 
路竹会が主催したある論壇で、彼女はMSFのメンバーと知り合い、彼らの驚異的な救援効率と後方支援チームの調整力、活動内容を理解した。「その時、本当に初めて『国境なき医師団』という名前を聞きました。それからはずっとその名前が頭に残り、それを努力の目標にしました」。
 
当時、MSFが非医療人員に対して基本的に要望していたことは、専門技術以外の豊富な第一線での経験だった。鄭巧鈺は自分でも経験不足だと分っており、急に応募してみる勇気はなかったが、その団体に接近したいと思い始めた。
 
今までに参加した巡回医療は奉仕拠点が多く、迅速に移動しなければならず、現地での医療行為の効果を目にすることはできなかった。そこで二〇〇九年、彼女は台北医学大学主催の二年間現地に駐在するスワジランド医療団に転向した。
 
彼女にしてみれば、今回の仕事内容は以前と大差はないが、全体の流れが大きく異なっていた。現地に比較的長く留まったため、彼女は団体とどうやって心を通わせ、運営上の関係を維持するかを学ぶと共に、外国で医療教育訓練を行う経験を積み、出発する前の初心と自分の目標を達成させることができた。
 
●「台湾路竹会」という名称は、長い道程と謙虚な竹の節という意味で、毎年、異なった専門領域のボランティアを集めて海外の辺鄙な集落で施療を行い、台湾の人道精神を世界で花咲かせている。(写真提供・台湾路竹会)
 

後方部隊がなければ、救援はできない

 
二年後、第一線の経験と専門技術を備えた鄭巧鈺は自分に確たる用意ができたことで、正式に国境なき医師団の行政と経理職を申請した。厳格な審査の末、彼女は遂に台湾から初めて第一線で奉仕するMSFの非医療人員となった。
 
また、それは以前と違って、武力衝突が起きている地域に派遣される可能性があると同時に、仕事の範囲がより広くなり、第一線より重い責任を担うことでもある。
 
本当の意味での挑戦が始まろうとしていた。「国境なき医師団」は国際的な医療人道支援組織であり、世界で起こっている武力衝突や天災、疫病による被災者、または医療体系から閉め出された地域で人々に対し緊急且つ最低限の医療看護、外科治療、予防接種、診療所の修理や運営支援を提供している。また、栄養センターを設置したり、心理面、精神面での支援と教育訓練まで行っている。
 
MSFは一九七一年、パリで設立されたが、半世紀近く支援してきたその軌跡は世界七十カ国余りに上る。数え切れないほどの医療、後方支援、経理、行政、管理等の専門人員が次々に参加してきた。今、国際事務所はスイスのジュネーブにある他、ヨーロッパに五つの活動拠点があり、世界各地には数多くの協会や事務所がある。
 
二○一六年現在、当組織の構成人員は二〇%が医師、三〇%余りが看護師や薬剤師、医療技師で、その他の約五〇%は非医療関係の専門職である。
 
専門の後方人員は血管を流れる血液のように、救援活動の命脈なのである。彼らはシステム化した分業によって医療行為以外の仕事を遂行し、どんな所にも出向く。例えば、設置チームだけでも医療と水道、電気と衛生班があり、被災者に対する各種物資の配付も行う。
 
職務は非常に細かく分けられており、例えば、活動日程の責任部門は人力配置と安全管理の他、MSFを代表して現地の役所や協力相手と連絡を取ったり、活動内容について話し合う。また、予算や人員の報酬を管理する行政や経理人員、井戸掘りやトイレ作りをする水道、電気、衛生専門の人員の把握もする。分業の細かさは枚挙に暇がない。
 
同じ台湾出身で現在、国境なき医師団(香港)の主席である劉鎮鯤は、初めて任務に就いた時のことを思い出した。当時、まだ独立していなかった南スーダンに着いた時、先ず、フィリピン籍の産婦人科医と一緒に手術室を設置することになり、手術に必要な設備や医療器具を揃えなければならなかった。そして、患者が手術室に運ばれてきた時初めて、一番基本的な手術用照明が取り付けられていなかったことに気づいた。その時は既に暗くなりかけていたが、幸いにも現地スタッフが大至急、ソーラー照明を持ってきて、手術は成功した。
 
非医療人員の後ろ盾がなければ、医療人員は医療行為を続けることができないことを証明している。困難な人道支援活動は尚更である。
 
鄭巧鈺が国境なき医師団で初めて就いた任務は、コンゴ民主共和国の首都、キンシャサで九ヶ月間に渡るエイズ予防計画への参加であった。その計画は病院とコミュ二ティーの両方で実施され、エイズの伝染予防及び患者の治療、継続追跡が目的である。統計によると、その計画に基づき、二〇一六年現在で二千五百人余りのエイズ感染者を治療した。
 
国境なき医師団は医師、看護師、医療検査技師、薬剤師、指導員及び夫々の村に派遣されている衛生教育を受け持つ人員を合わせると百二十人に上る。「その規模はかなり大きいように聞こえますが、組織の中では中小規模の計画に過ぎません」と彼女が言った。
 
国境なき医師団では細かく分業化されており、鄭巧鈺は専門の財務能力を思う存分発揮することで貢献している。彼女の仕事は主に「財務管理」と「人力管理」であるが、日々の現金支出や月次報告、予算のコントロールと後続追跡、人員の雇用と養成、人力配分、給料の支払いなど、病院の運営が順調に行くようにすることも仕事の一部であり、寄付金の有効活用も仕事の一部である。
 
彼女は専門職を発揮する他、現地スタッフとも仲良くなった。そして、最も忘れ難い出来事があった。
 
●戦乱の南スーダンにも基本的な通信設備が備わっている。(下図)アルミ製の骨組みでMSFの病院を建てた。地形に沿って高さを調整することができ、何度も取り外したり組み立てたりすることができる。(左図)香港から来た水の専門家が難民キャンプで飲料水設備を取り付けた。(左の下図)
 

技術にも人にも国境はない

 
「仕事柄、私は患者と接触する機会は多くありません。その代わり、安全人員やドライバー、医師、看護師、指導員、清掃員、物流関係者とは常時、交流があります」。鄭巧鈺はよく退勤すると、同僚と一緒に道端の露店でビールを飲んだり夜食を摂ったりした。キンシャサには街路灯はなく、夜になると真っ暗である。皆、たまに通りかかる車のライトに照らし出される腰掛けに座って、一日の出来事を話したりしてストレスを発散させた。
 
「ある六十歳ぐらいの監視員はとても人が良いのですが、戦争の時に怪我をして、体半分に障害が残りました。歩く時は体全体が揺れ動くのですが、とても活発で、毎日、仕事で走り回っても不満は言いません」。鄭巧鈺はある日、仕事で困っていた時、その人に不満をぶちまけたことがあったが、慰めと意見をもらったのに、逆に彼女は感謝された。
 
外国から来た支援人員が心を開いて悩みや生活上の困難を話してくれるのは滅多になかったからである。そこで彼女が気づいたのは、「救済支援と同様、人への信頼と誠意にも国境はない」ということだった。
 
●武力衝突が起きている地域では交通が至極不便である。車両の安全な通行のために、オーストラリアから来た後方人員が診療所の前で、仕事に支障が出ないよう、チームメンバーとSUVの装備について話し合っていた。
 
また、ある日、鄭巧鈺は南スーダンの辺鄙な村での任務遂行に緊急派遣されたことがあった。コンゴのキンシャサと違って首都でもなく、人力、資源、設備の全ての面で不足していた。国境なき医師団はそこに病院を設け、三十キロ以内に二軒の診療所も設けていたが、まともな道もなく、泥道だけで、交通に支障をきたすこともあった。
 
「乾季の時は車で行けますが、雨季になると道はどろどろになり、車は使えません。歩いた方が速いぐらいです」と彼女は笑った。雨になると三時間ほど掛けて舟で行くのだが、川底が浅く、大きな舟は通れない上に余り多くの人が乗って行くこともできない。舟が重過ぎて水草が絡まり、動けなくなるからだ。
 
しかし、対応が間に合わなかったため、彼女はやはり雨の日に出張することになった。
 
一般的に、武装衝突が起きている地方の貨幣は極度に不安定なため、彼女は現地スタッフと一緒に大きな現金袋を持ってその二カ所の診療所に行き、米ドルで給料を払うのである。
 
ある日、小舟に乗って半分も行かないうちに、突然、バケツを空けたような大雨が降り出したため、彼女は見に付けていた上着やレインコートでリュックを包み、お金とパソコンが濡れないようにした。大雨は二時間ほど続いたが、お金とパソコンは無事だった。しかし、彼女たちはずぶ濡れで、二人して熱帯の国でぶるぶる震えていた。
 
岸に上がった時、靴を脱いで裸足で泥の中を歩いていた同僚の背中を見て、彼女は突然、感じるものがあった。「そこの地理と気象条件は私にとってはとても厳しいものでしたが、それが現地の人の日常です。病人だったり舟がなかったりした時はどうやって遠く離れた診療所にいくことができるのだろう?と思いました」。その計画は既に十年以上も続いており、それを思うと、彼女は現地スタッフと住民に敬服せずにはおれなかった。
 
●武力衝突地域では女性のお産も一大問題である。南スーダンの妊婦が合併症を起し、大勢の人の協力の下に、飛行機でMSFの病院に搬送された。
 

台湾でも見証し、宣伝し続ける

 
救済支援の他、「見証」も国境なき医師団の極めて重要な仕事である。その団体の発起人は医者たちと記者であるが、だからこそ救済人員が前線で見た医療人道状況を報告し、病人や弱者たちのために声を上げることが不可欠であり、今でも組織の核心精神なのだそうだ。特にメディアに報道されない地域での奉仕活動見逃すわけにはいかない。
 
前線で活動する人自身が救済活動時で見聞きした状況を世界各地の支部を通して刊行物やSNSで発信し、記録動画試写会、座談会方式で人々に知ってもらうと共に、人道危機に陥っている地方と人々のことを国際社会に喚起している。
 
一昨年、国境なき医師団は遂に台湾で事務所を構えた。台湾の大衆との直接窓口として財務、行政、管理及び前線での豊富な経験を持つ鄭巧鈺が責任者となった。
 
「台湾に戻って事務所を開設したことは、私にとって新たな挑戦です」。前線で何年も仕事をしたが、これから向き合うのは台湾の法律や大衆である。どのように交流していくか、特にSNSやメディアに慣れた大衆に前線での救済活動を知ってもらうにはどうしたらよいのか、同時に組織の立場と任務を果たしていく必要もあり、彼女と事務所にとっても大変な仕事が待っていた。
 
●半世紀もの間、細かく分業されたMSFの後方部隊は、数え切れないほどの医療人員が救済任務を遂行するのを支えて来た。それは誰でも自分の専門分野で善行できることを証明している。
 
二年が過ぎ、台北事務所は様々な方法で大衆と交流することができるようになった。例えば、華山広場で実物展示会や医療人道支援記録映画の試写会を催した時は、未だに終息が見えないエボラ熱や薬剤会社の内幕と、国境なき医師団の前線活動を支える影像などを主体にした。
 
将来、事務所は基金會を設立することを目指しており、台湾の大衆に社会から忘れられた医療人道危機に直面している人々に関心を持ってもらい、前線での仕事をサポートしてもらうため、簡単に寄付できるよう様々な方法を提供して行こうと考えている。
運営方式は基金會であるが、活動内容は「大衆に医療人道支援という題材に関心を持ってもらう」、「前線の医療・非医療人員募集」の二つを柱にしている。
 
統計によれば、国境なき医師団は毎年三千人の国際救援人員を世界各地に派遣しており、三万人近い現地スタッフと共に緊急医療活動を展開している。それは主に生命が武力衝突や伝染病、栄養不良、医療看護不足、天災などによって脅かされている人々に対する治療である。
 
その中で非医療人員の総数に占める割合は五十パーセント近くになり、その重要性は否定できない。他の国と比較して、台湾人が参加しているのは僅か十人の医師と伝染病学者だけで、非医療人員は鄭巧鈺一人だけである。
 
彼女の考えによれば、この組織に対する大衆の認識が異なり、医療従事者でなければ申請資格はないと思い込み、後方支援人員が各方面の専門家によって成り立っていることさえ知られていない。「台湾には財務、人事、エンジニア、情報等の専門人材が多いので、私たちのことを知ってもらい、前線の支援に参加してもらうことを事務所の任務の一つと考えています」。
 
鄭巧鈺が学校を卒業した当時、理想と現実の落差を感じ、将来に対する不透明感を感じたのは一般の若者と同じだった。しかし、人と違ったのは、会計関係を諦めることなく、それを基礎にしてあちこちで異なった領域の人に学び、他の人には真似できないキャリアを築き上げたことである。彼女に出来るなら、他の人にも出来るはずだ。
 
今、戦争と無関係の台湾にいる私たちは、彼女のお陰で知らなかった世界を垣間見ることができた。それは武力衝突が続く地域に人々の関心が集まることもない中で、黙々と医療人員の後方支援に努力している専門職の人たちが存在しているのだ。苦難に喘ぐ人々に彼らが取り戻して上げている人間としての基本、それは生命なのである。
(経典雑誌二三六期より)
NO.266