慈濟傳播人文志業基金會
訪問ケアの生き字引 呉碧桃

経済的な困難を慈済ボランティアが差し伸べてくれた手によって脱出した。

精神的な苦しみも慈済の訪問ケアによって出口を見つけた。

呉碧桃は苦しみが自分の人生にとって養分となったと話す。

そして今自分が訪問ケアボランティアとなって苦難の淵にある人を助けている

今年の1月、新北市の板橋区冬季配付を行った。呉碧桃が訪問ケア家庭に新年の物資を送った。
(撮影・呂瑞源)
 
├訪問ボランティア  呉碧桃┤
 
1953年生まれ。1981年、慈済委員の認証取得
訪問ボランティア歴:32年
訪問時の心得:精一杯やること。全力でやっても、どうしてもうまくいかない時は、その重荷を一度下ろしてみる。重荷を下ろすことはあきらめることではない。また縁があればその時に手を差し伸べる。失敗しても、苦しんでいる人を助けることをあきらめない。
 

 

今年で六十四歳になる呉碧桃は、新北市板橋地区で初めて誕生した慈済委員(慈済の幹部ボランティア)です。訪問ケアの活動に身を投じて三十年余り、経験豊富なだけでなく、後輩ボランティアにとって生き字引になっています。

解決が難しいケースにあった時、ボランティアが助けを求める力強い人です。呉碧桃はなぜ訪問ケアが必要となったのか、その原因を探り出し、その人に合った最適の援助をします。

「私自身、貧しさと病に取りつかれた経験があります。ですから、貧困に喘いでいる人たちの気持ちを、ほかの人たちよりもよく理解できます。私がどうやって困難な道を通ってきたかをボランティアに語り、私たちが奉仕しているケースの数々は自分の心の良知を呼び覚ます教育でもあることを話しています。人生は無常です。何を気にかけることがあるでしょうか? とにかく相手の気持ちになって、一歩一歩その家庭に寄り添い、共に難関を突破することです。

 

辛い人生を生きる人たちを

よい方向へ導く

 

呉碧桃は雲林県台西郷で生まれました。幼い頃、農家の両親は叔父の結婚費用をつくるために借金をしました。その後収穫が悪く田畑を手放し、それからの三食は芋ばかりでした。寒い冬ともなれば、両親の古着を着て我慢していました。

小学校卒業後は菓子や靴下工場の雑用をして、一日六元ばかりの日給をすべて母に渡して二人の弟の学費に当てました。小さな時から貧しく苦労のしどおしでも、自分の境遇を恨まず、人を憐れむことを知っていました。

裕福ではない家庭であっても、母から「将来食べるご飯に恵まれた時には、困っている人に一口でもいいから分けてあげるように」と言われていました。

その後、台北市蘭州街に引っ越した時は十四歳になっていました。父の勧めで美容院に勤めましたが、一日十二時間以上の重労働で、休暇は月に二日だけでした。一日中立ちっぱなしでお客の髪を洗わねばならず、腰痛に悩まされ、指先に血がにじむこともありましたが、雇い主は従業員を少しも気遣ってはくれませんでした。その時呉碧桃は将来、自分の店を持つことができたら従業員によくしようと心に決めていました。

十九歳の時、姉の開業していた美容院に移って美容師になりましたが、その後、姉は別の事業を起こして店を彼女に任せました。従業員には労働に見合った給料を与え、忙しい時には手当や食事もつけ、自分が受けたような苦しい思いをさせないよう努めました。

北部の慈善研修会で30年来の訪問ケアの経験を話す呉碧桃。
(撮影・陳坤富) 

自分だけ安泰ならよいのではない

 

二十四歳の時、父の勧めで見合い結婚をした後、人生は暗転しました。「私と夫は性格から生活習慣、人生観までまるで正反対で、平行線のように考えが交わることはありませんでした。結婚前には優しかったのですが、結婚後は一転して冷淡になりました。家のローンのために一生懸命働いて、心身ともに崩れ落ちてしまいそうになった時、追い打ちをかけるように子宮筋腫と心臓弁幕不全と診断されました。

健康状態が悪くなっても夫は家のことは構わずしたい放題で、離婚を考えましたが、母に反対されたのと、子供たちの将来を思って、歯を食いしばって子供を一人前にするまで辛抱することを決意しました。過ぎ去ったことですが、涙で過ごした日々を思い出す度に感情が高ぶってしまいます」

不幸な結婚に呉碧桃は宗教に救いを求めようとしました。そんな時、故郷が同じ雲林県出身の従業員が急性腎臓病を患いました。美容院の客だった慈済委員が、見かねて慈済の補助を申請してくれて、この従業員は毎月二千元の補助金を受け取ることができました。当時の二千元は大きかったです。

あの時、慈済団体の浄財は委員が毎月五元、十元と会員から集めた貴重なお金だということだと知りました。そして二十九歳の時、慈済委員の引率で花蓮県の慈済精舎を訪れます。ここで慈済が慈善と医療の奉仕に尽力していることを知って感動し、すぐに證厳法師に帰依することを願い出ました。

證厳法師が「私の後について修行するのはとても辛いことですよ。怖くはありませんか?」と聞くと、呉碧桃は「怖くありません。私は一生法師についていく覚悟です。法師にお会いできたことは私にとって最高の幸せです」と笑いながら答えました。

こうして帰依した呉碧桃は「静姝」という法名を賜りました。その後の人生はまさに百八十度変わりました。貧しい日々は過ぎ去り、肉を断って菜食にし、食べ物があるだけでも感謝し、服装も簡素に変わりました。

これまではモダンな服装を好んでいましたが、今では慈済の制服が最も美しいと言います。口数が少なく冷たい感じを与えていた表情は消えて、柔らかく優しくなり、慈済のことや訪問ケアで経験したことなどを、店の客や近所の人たちに話すようになりました。慈済人になってから、法師の開示によって得た心霊の解脱の経験を、困難に遭遇している人たちと分かち合い、その人たちが一日も早く朗らかになれるように努めると言っています。

美容師の呉碧桃はケア対象家庭の子供が自分に自信が持てるようきれいに髪を切ってあげる。
(撮影・劉対) 

時間を作って人々に寄り添う

 

静姝は三十年来の訪問ケアの経験があり、それぞれのケースにはこの世の無常と離合が込められていると実感しています。

その中でも、一九九八年に中華航空機が着陸寸前に大園で発生した遭難事件は思い出すだけでも動悸が止まらないと言います。二百人以上の遭難者がひっきりなしに板橋の葬儀場に運び込まれ、中には大型の黒いビニール袋に入れられているのもありました。彼女は慈済ボランティアたちと遺族に付き添って遺体の確認を手伝っていました。

その中で身なりのきちんとした婦人が、手に数珠を持って冷静にしていました。近寄って、「どうなさったのですか」と聞くと、息子は機内乗務員だとの返事でした。「念仏を唱えましょうか」と言うと悲しそうに、無言のまま「ありがとう」という意味の笑みを浮かべていました。

こんな場合は手を握ってあげて、「お食事は? お水を飲みます?」と聞いて、静かに寄り添い、あまり余計なことをしゃべらないことにしています。家族が亡くなった人に対して何をしてあげればいいかと聞かれた時、「祝福してあげましょう、すべてを放下するように」と答えます。また、「法事の必要はありますか」と聞かれた時は、「あなたが法事をすることによって心が安らかになるなら、亡くなった方も喜ぶでしょう。ご自分でよく考えて、慈済が必要でしたらすぐにお手伝いします」と答えていました。

あるケースで、台北の木柵に住む女性が、夫の亡くなった後三日間飲まず食わずに泣きながら、亡骸を抱き続けて放そうとしませんでした。ボランティアは経験の深い静姝にこのケースを頼みました。彼女はボランティアたちに、どんなケースであっても当事者の同意を得ることが大切ですと教えました。そしてボランティアが悲しんでいる女性にお手伝いすることはありませんかと聞くと、ありがうと言って、ただ心の落ち着く時間が必要だけですと言いました。

ボランティアがすべき最も大切なことは、相手を尊重することです。時にボランティアは熱心になりすぎるあまり、相手が必要としているだろうとの思い込みであれこれ手伝おうとしますが、何を必要としているかよく観察し、見極めなければなりません。ある人には寄り添って心の傷を慰めてあげることが必要ですが、人の助けを受けたがらない人には静かな空間が必要になります。多くの場合はその心に寄り添い、ただ黙って話しを聞いてあげて、心にたまっている辛い思いを吐き出させるのも慰めの方法です。 

慈済ホランティアが退役軍人の施設を訪問した。陽気な呉碧桃は年長者を誘って、一緒に歌った。(撮影・張素燕) 
 

 

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静姝の訪問ケアの記録手帳には、ある三十歳の女性が夫の暴力にあったケースが記されています。夫は度々酒に酔って暴力をふるい、女性は逃げ出して保護令の申請をしましたが、半年の期限が切れたので、家庭暴力防止センターの紹介で慈済ボランティアに協力を求めてきました。

静姝は「どのケースも最良の生命教育です。私の結婚は円満とは言えませんが、夫は酒を飲まず、暴力をふるうことはありませんでした。さまざまな境遇の人たちを見て、いろいろと気づかされます」と言います。

北部の慈善研修会に出席した呉碧桃は、三十年間訪問ケアに携わって会得した人生の智慧を皆に話しました。訪問ケアを行う中で人生の無常を体得し、足るを知って常に感謝し、今の一刻を大切に過ごさなければなりませんと話しました。さらに慈悲の心と同理心を培い、苦を見て己の幸福を感じています。證厳法師は「苦しみを経てきた今の幸福な人は、さらに前進しなければなりません。なぜなら奉仕をして社会にお返しする能力がある人は、最も幸せな人だからです」とおっしゃいました。

(慈済月刊六〇三期より)

NO.244