慈濟傳播人文志業基金會
心の風景を自分で営む

朝日が昇り、葉先の露は、小さいながらも安らかな大世界の奥義を醸し出している。四六時中の循環、巡りくる昼夜には自然界の定律が延々とつむがれている。

しかしせかせかした環境に身を置く現代人は、常に「間に合わない」という焦燥感に襲われ、どれだけの時間にどれだけの金銭を得られるかにばかり気を取られ、人生にあるべき安らぎと快適さを体得することができない。

人々は絶えず流れ去る時に対して、時を善用しないだけでなく、反対に疲労感に落ち込み、いかに処置すべきかと苦悩する?

今月いろいろな人々をインタビューして、忙しい時の間にいかに静的な力を探し求めているたか、話を聞くことができた。ボランティア、林月雲さんは、慈済に参加して三十年以上になる。はじめは宗教に興味があり、仏教各宗派の道場を巡るだけでは気がすまず、インドの聖堂にまで行ったこともあるが、最後に慈善利他を実践している慈済の一員となった。

ボランティアの任務は多忙で、禅修行とは程遠かった。法師は彼女に「すべてのことに気をつかい、この世を道場だと思うこと」と言われた。この教訓を胸に、何事も細かく観察し、「忘我」を以て「生のある現在」を深く会得した。この心の鍛錬によって癌告知も、一人息子を事故で亡くした悲しみも乗り越えることができた。

證厳法師に従って七年あまりになる徳松法師は、出家前は台北のある商社で秘書をしていたが、大都会の喧騒になじめず、心の空洞は日増しに大きくなっていた。出家した後の生活はやはり忙しいが、規律のある生活の中で心が澄み切ったように感じている。

徳松法師は《法華経》の中に「その心海のごとく安らかなり」とあるのは、仏陀の安らかな御心をそばにいる人たちも感じていることを描写していると話す。例えば大海の水面は波もなく静かに見えるが、その下では荒れているように、「動」と「静」は表裏同体である。外面は雑然としていても、人心はそれに抗おうとしたりせず、反対にこの機をかりて規律を整えるなら、内心はさらに細やかにゆったりと安定して静かでいられる。

西洋医学は人体をロボットのように見なして、絶えず修整を必要とする。医学治療は機器を用いて機能を回復させることを主としている。西洋医学から自然医学に入った許瑞云医師は、「心は身体疾病の根源だ」と話す。心が忙しさに左右されると、人は事物に対して過度の期待を抱き、心身のバランスを失い、心は注意力散漫となって混乱する。この混乱が生理の混乱を引き起こす。それは疾病のはびこる根源になっている。

生気が溢れる春、大地が私たちに多くの霊感を与えてくれている。松の葉の先の露を凝視するように、日常の些細な事々を静観すれば、私たち皆は至る所で得ることができる。心が環境に左右されず、今まさに流れ去る一時の中で、私たちは無限に心の風景を自分で営むことができるのだ。

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