心が静かであれば万法を感じる力が生まれ、
真に法を求める心、法を悟る力が生まれる。
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静思精舎に在住する出家修行者が野菜を洗っている。天地はコインの裏表で、心身は相互に作用し、労働と心念も相互に影響しあう。慈済に身を投ずることは、いわゆる生活の禅、仕事の禅を行うようなものである。日常の労働の慌ただしさの中で心を静め、落ち着かせることを学ぶのである。 |
湖の水が風景をはっきり映し出せるのは、湖水が清らかで、さざ波が立っていないからです。人が大いなる智慧を得て、真理に通じることができるのは、心が静かで穏やかだからです。
毎日早朝五時半、上人は朝のおつとめで私たちに仏典を説法してくださいます。上人はこうおっしゃったことがあります。「時折、空が暗いうちに書斎を出て、経を教える本堂に着くまでの間、回廊に立って空の果てを眺めていました。果てしない夜空に浮かぶ満天の星と月が、静かで穏やかな気持ちにさせてくれました」
穏やかな静けさの中、上人は万物はいつでもそこにあることを悟りました。晴れの日には、大地の穏やかな呼吸が聞こえてきます。森の木の香りがします。雨の日は、雨水のリズムが聞こえます。心が静かであれば、天地万物の変化を自然に、敏感に感じ取れるのです。
『法華経 序品』の中にお釈迦様が霊山会で行った説法の様子が書かれています。お釈迦様が入定するその時、眉間にある白い巻き毛から一条の光を放ちました。端座していた人々はお釈迦様の柔和な光に包まれました。爽やかなそよ風が吹き、花びらが香りを放ちながらヒラヒラと舞い落ちました。お釈迦様は大法を説こうとしていましたから、心は広々と自在でした。大衆の心は喜びと敬虔に溢れ、お釈迦様から衆生に以心伝心で法が伝わったのです……。
霊山法会に集った人々の心は穏やかになり、自然と求法求道の心が湧いてきたのです。
天理に従えば
理に適い心安らかになる
心が静かであれば万法を感じる力が生まれ、真に法を求める心、法を悟る力が生まれます。
それでは、いかにすれば心が静まるのでしょうか。倫理道徳を守り、品性と徳性を持てば、自然と妄想雑念は消え、心が静まり、真理を悟ることができます。
上人は仏典の中の「野良犬がライオンに恩を返す」という物語を語ってくださいました。
ある森の中に一匹のライオンと五百匹の野良犬がいました。ライオンは百獣の王。体格も立派で、ライオンを見た動物たちは一目散に逃げ出します。野良犬は身体は痩せて、力もなく、いつも他の動物たちにいじめられていました。野良犬はライオンに守ってもらおうと、いつもライオンの後ろについて回っていました。愛の心を持ったライオンは、いつも獲物を食べた後、その一部を野良犬たちに残してやりました。
ある日、ライオンはうっかりと大きな穴にはまって這い出すことができなくなりました。四百九十九匹の野良犬はライオンが困難に陥っているのを見て、四方に走り去りました。ただ一匹の野良犬だけが、今までライオンから受けた恩情に感謝して、なんとかしてライオンを救おうとしました。智慧のある野良犬は、一生懸命、土を穴の中にかき入れました。そうするうちに、だんだんと土の山ができていき、ライオンはその上に跳びあがって、穴から出ることができたのです。
そのライオンはお釈迦様の、小さな野良犬は阿難尊者の前世の姿でした。阿難尊者は生生世世にわたり、お釈迦様の修行に付き従いました。いつも敬う心を持ち、恩を忘れない人でした。そのため、お釈迦様の身の回りの世話をしながら、説法を聞いて忘れないという福徳と智慧を得たのです。
あの四百九十九匹の野良犬は、提婆達多に付き従ってお釈迦様の僧伽(僧団)を離脱した比丘たちで、いつもお釈迦様を陥れ、僧伽を破壊しました。その因果応報は常に彼らについて回り、輪迴の苦しみを味わうこととなりました。
阿難は品性と徳性があったゆえに、心が静まり、心が静まったことで智慧が開けました。これは自然の法則です。
天には天理、人には人理があります。天理とは、天体に軌道があり、規律の中で安定して動くことです。地球にも四季の循環があり、秩序の下で天候は穏やかで順調に変化します。人理とは倫理道徳で、一人ひとりが倫理に従って行動すれば、世界は平安になります。
天理と人理は相通じます。天理が自然の法則であれば、人理もまた自然の法則です。自然の法則というのは、自然の一定の秩序のことです。自然の法則の特徴──それは、道理が本来あるがままということ、これまであったとおりということなのです。
したがって、行いが倫理道徳に適っていさえすれば、自然の法則にも適い、いつでも心が落ち着いて、真理に対して超越的な悟りの力が生まれるのです。
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嘉義大林慈済大愛幼稚園の園児が茶道を学んでいる様子。落ち着いた静かな心は品性と徳性の涵養から生まれ、礼儀と人文を通じて浸透する。
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自己を律してこそ
影響力を発揮できる
中華民族は「礼儀の国」と呼ばれ、古来より礼を重んじ、礼を守る伝統があります。中華文化において、礼の本来の意味は「音楽を奏で、美玉を捧げ、祖先の神霊に礼拝して、福を祈る」というものです。そこから派生して、礼服、礼楽、礼器など儀式に用いる衣服や品物を指すようになり、社会秩序や良好な人間関係のための規範やルールを指すようになりました。例えば、規則、戒律、家庭のしつけ、校則、法律、組織制度などは、いずれも礼に含まれます。また、一切の道徳修養、例えば、感謝の心、敬いの心、敬虔な心、愛の心なども指します。これらもすべて礼です。
中華文明では、一人の話し方や表情が上品で礼儀があるかどうかが重視されます。その意味は、礼儀正しい態度で人や物事に接することによって、心を訓練し、抑制し、管理して、気の向くままに人を傷つけないようにするということです。やられてもやり返してはいけません。寛容と尊重、いたわりで人に接しなければなりません。これこそ「己を制して礼に復する」の道理です。自分の気持ちに打ち勝ち、礼に適った行為を行えば、素晴らしい品性と徳性が身につきます。
一人ひとりに徳があってこそ
良い制度に
秩序と調和の美に資するものは、すべて礼に含まれます。組織制度や生活ルールなどもそうです。
上人は、制度は重要だと考えています。異なる環境で育ち、様々な考えややり方を持つ人々が集まっている集団において、皆がともに遵守すべき方向性や規範がなければ、物事はスムーズに進まず、混乱してしまいます。
上人は、組織制度がうまくいくには、職位、権限、責任の所在と作業プロセスを明確にしなければならないと考えています。リーダーに権限と責任がなかったら、物事はうまくいきません。順調に事が進む時、一人ひとりに規律があるがゆえに集団にも秩序があり、秩序があるがゆえに安定した雰囲気があります。それでこそ一人ひとりが安定した環境の中で、心が定まり、心が静まり、それによって智慧が開けるのです。
このように制度は重要ですが、しかし、上人が強調するより重要なのは、一人ひとりの品性と徳性を養うことだとおっしゃっています。いかに厳格で完全な制度であっても、もしメンバーに自覚がなく、規範を守れないとしたら、何の意味もありません。
どうやって一人ひとりの徳を育てればよいのでしょうか。上人は自ら手本を示すことが非常に重要だと考えており、「リーダーは、見た目の振る舞いが立派でも心の中が雑念や妄想だらけであれば、『威ありて徳なし』であり、習気や煩悩がしばしば現れてくるため、皆を信服させることはできない」とおっしゃいます。
もし心の中から外まで皆戒律を守れば、内には修まり、外には形が整って、心の内の品性と徳性が外の振る舞いに現れます。それでこそ「威儀の欠けたる所なし」ということになる。見るからに徳相があり、長くつきあっていても、いつも穏やかで、親しみ深く、浮つかない、このような人こそ、衆生を調伏させることができます。説法しなくても、一挙手一投足に法があり、ちょっとした振る舞いで衆生を教育することができます。
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掃除をしながら「心地を掃除」する。薪や水を運ぶのも全て禅である。何の変哲もなさそうな日常生活も、心身の鍛錬や落ち着いた静かな心を育てるきっかけになる。 |
生活教育で品行を涵養する
身だしなみ、住居の清掃、人に対する礼儀、家事の学習などの日常生活における礼の行いは、上人が非常に重視するものです。
上人はかつて弟子たちに掃除の仕方を教えました。掃除にも「掃除の法則」があり、その方法を一生懸命学ばなければならないのだと、上人はおっしゃいます。「現在の子供たちはほうきの持ち方も知らない」と上人は嘆きました。「ほうきで地面を掃くのではなく、片手にほうき、片手にちりとりを持ち、あちこち歩きながらちょっと掃いてみるといった感じ」という状況を目にするたび、「これが掃除といえますか。これでどうしたらきれいになるのです」と、ため息をつくのです。
上人曰く、昔は掃除の時にはまず土埃が舞わないように水をまいて、それからほうきで隅から掃き始め、掃きながら後ろに下がり、最後は土埃を一カ所に集めてから、ちりとりに入れたそうです。そして、毎朝掃除をする時、「人生を美しくしている」ような気がし、地面がきれいになると、自分の心もきれいになったような感じがするのだそうです。
上人はこう話します。「掃除の動作は簡単ですが、そこから人としての学びが始まります。お年寄りが若者に掃除を教えるのは、取るに足らないことでも手を抜かず、清潔を大事にするということを教えたいからです」
「昔、子供たちは決して学校に入ってから教育を受けたというわけではなく、子どものうちから家庭で教育を受けていました。起床後、まず自分の身だしなみを整えること。女の子は髪をとかし、おさげを結いました。ぼさぼさ髪などもってのほかでした。男の子も髪を短く切って、潑溂として格好良かったのです。様々な家事もそれなりの水準になるまできちんと学ばねばなりませんでした」と上人は話します。
お年寄りは子供たちに行儀も教えました。きちんと座って食べる、使った物は放っておかず元に戻す、席を譲る、お年寄りを敬う、お客が来れば自分からあいさつをし、丁重にもてなして尊重し礼をつくす、学校では先生を見たら足を止めて、ぴしっとして、お辞儀をするといったことです。
学校は道徳教育を行う場所です。上人は昔のような師を敬い道徳を重んじる教育に戻ることを願っています。ですから、慈済学校の校長や先生たちに対しては、自分の仕事の重要性を理解し、教育の使命をしっかり果たしてほしい、と切に話して聞かせていらっしゃいます。教育は生活教育から始め、生活教育を通じて高尚な品行を育て、よい人格の基礎を固めなければならないのです。
礼のある人は真理に到達する
人は人らしくあらねばなりません。外在の美と内在の美が揃って内外ともに美しく、礼儀正しく、威儀が整っていること。これが仏法の教育、中華文化の教育であり、上人が重視する教育でもあります。
礼あれば理に達す。礼は人としての道理です。人として、常に感謝と敬いの心を持ち、目上の人を尊敬し、親孝行し、たくさんよい行いをし、礼を知り、それを守る人は、倫理道徳の情操が育つと、上人は考えています。倫理道徳の情操があれば、心は落ち着き、感じる力、悟りの力が向上します。一切の人、事、物の理に自然に通じ、最終的な解脱に至ることができるのです。
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