良い事を実践し、良い言葉を口にすれば、他人にも分かるが、心に思うことは自分にしか分からない。
自分と向き合って、動態の中に静態を修行し、乱の中に定ができれば、それは真の技である。
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劉濟雨は頻繁に講演を依頼されるが、謙虚になるよう自分を戒め、智慧や法話を日常生活に取り入れている。とくに一人の時は用心しなければならない。
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■劉済雨
マレーシアで成功した台湾の企業家。2001年に事業を終結し、約5000坪の工場跡地を慈済に寄付。2012年まで慈済マラッカ支部長、シンガポール支部長を歴任した後、現在台湾に定住。『心路』『修と行』など8冊の著書を上梓している。
機智に富んだユーモアな語りに加え、ボディーランゲージを豊富に使い、人生の道理を日常生活に組み込むことに長けた劉済雨は、慈済ボランティアから評判の話し上手である。リラックスした会話の中にも博識で機智に飛んだ言葉が光り、時には諧謔詩のような面白い言葉も飛び出してくる。
話し上手というと、今の世の中ではあまり褒め言葉にはならず、世が乱れるのを喜ぶような報道関係者に多く、社会の不安定要因の一つになっている。
劉済雨は話し上手だが、話すということに非常に慎重である。言葉を話すというのは情報の伝達が目的であるが、言葉自体は人間関係の中で意志の疎通を図る役目を果たしているのは七パーセントにすぎないことを科学者が証明している。ということは、人間関係で重要なのは決して口にだけ頼るわけではないのだと彼は言う。
しかし、俗世間ではとくにその七パーセントを重視し、「とりわけ言葉を発しない時の考え、情緒、顔色、態度こそが本当の心の現れのはずです」と劉済雨は言う。「これは内にある『静寂』の質と関係があります」。現代人は動と静のバランスが取れず、とくに忙しい生活を送っている人は暇になると落ち着かなくなる、と彼は思っている。
常に多忙でも人生の方向が分からず、盲目に社会の風潮に追随する現代人にとって一番難しいことは、「静かに何もしない」ことである。それは休まる暇のない脳が何もしないのは時間の浪費で、人生を無駄にしていると思うからである。
多くの人は、「忙し過ぎて家族サービスもできないのに、静かになる時間がどこにある?」と言う。劉済雨によると、その言葉は「自分の車はとても速く走っているので、ハンドルを握る暇はない」と言っているようなもので、真の道は正反対で、正に車を速く走らせているため、いつでもブレーキを踏み、ハンドル操作ができるようにする必要があるのだと彼は言う。
心身共に忙しさで疲れきり、その忙しさで方向感覚を失くしたり、間違った方向に走ったりしたら、それは「生活上の危機」と言える。それはアクセルしかなく、ハンドルもブレーキもない車のようなもので、「いつ事故を起こすか分からない」のだ。
酒で気を紛らわせようとすればするほど憂鬱になる
人が安心感を失くした時、より多くの金や権利、物質を手に入れようとするのは、それらが幸福や平穏をもたらしてくれると思い込むからである。
もし、消費や娯楽によって質の高い無害な快楽をもたらそうとするなら、それは間違った快楽だと言えるだろうか。これこそ現代人の憧れではないのか? それを追い求めること自体に問題はないが、「危機はそういう思考の中に潜んでいる」と劉済雨は言う。
というのは、それが当たり前になった時、「それを生涯の目標にしてしまうから」だ。かたや物質面で享受し、かたやより深く心の平静を求めようとすると、本質的に相反するものであるため、より強烈に心に物足りなさと恐怖を感じてしまう、と劉済雨は言う。
劉済雨は、物質はもちろん重要だが、「ほどほどのところで止めるべきです」と言う。成功した企業家として、彼は世俗的な事業の忙しさを経験し、「本質的には無駄な時間だった」と思っている。というのも、損得ばかりに心を悩ましていれば、例え利益が目標に達しても、「智慧や幸運の下にその財を使えるとは限らない」からだ。金儲けのために健康を犠牲にするのは、将来を心配して現在を楽しく過ごしていないことである。
生活が多忙で、仕事のプレッシャーが大きいと、休みの時は旅行に出かけたくなる。「観光地でどんなに交通渋滞に巻き込まれても、彼らは家を離れようとする」。遠く離れた所に頭に描いた静けさと快楽が待っていると思っているのかもしれない。「しかし、故意に追求する快楽は往々にして重荷になることがある」と劉済雨は言う。人生の究極的な快楽の道は心の中にあり、外にあるのではない。したがって、近いものを棄てて遠いものを求め、自分で静寂と思い込んでいるものを求めれば求めるほど、渋滞に巻き込まれ、酒で気を紛らわせれば紛らわせるほど憂鬱になるのだ。
かつてそうやって追い求めて来た「経験者」である劉済雨は、求めたものを手に入れた時、予期していたような幸福と快楽感は得られず、「貪欲」はあらゆる煩悩の根源であることに思い当たらされた。それ故、「捨」を選んだ。心配したり悲しんだりのあくせくした日々を捨てた後、それに取って代わったのは軽やかで自在な生活だった。慈済の一員となってから二十年後、事業を辞め、縁を大切にして全身全霊、楽しいフルタイムのボランティアとなった。
事業を終結するのは容易なことではなかった。「創業も容易ではないが、結業も大変である」。智慧と運が必要だ。人生の方向を変えることを決意し、高く飛び立つ人生目標を持てば、心に安定した力が宿り、より自在になれる。
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劉濟雨の娘はアメリカに住み、妻は慈済マレーシア・クアラルンプール支部長で、彼は1人花蓮に住んでいる。宿舎では読書に没頭する。
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心はどうあるべきか
以前、劉済雨が浄土宗に出会った時、母親や妻と一緒に念仏し、西方浄土に生まれ変わることに憧れていた。二十三年前、慈済の「群衆に混じる」「自分の手で布施する」慈善志業に参加して、静も動もある修行方法がとても性に合うと彼は感じた。
彼はとても忙しかったため、智慧を絞って自分の本分である家のことや事業と関係ない雑用を減らすようにした。悪いことは見聞きせず、多忙な生活を身につけることで精進に励んだ。しかし、こういう精進も方向と方法が正しくなければいけない。
「透き通った水は不純物がないということではなく、沈殿すればいいのです」と、劉済雨は例えて言った。「清浄な心とは雑念がないわけではなく、何を捨て、何を残すかを知っているのです」。現代人は何を心に残し、何を捨てて執着しないようにするかを学ぶべきである。
「敵を押さえ込むのではなく、努力して自分を壮大にすればいいのです。情緒やふとした思いが出て来るのは日常的なことで、故意に押さえ込もうとしなくても良いのです」。静定の道を修行する方法は至って平凡なもので、心の煩悩を素早く転化させることだと劉済雨は言う。「人、事に対する煩悩がなければ、悟りはないでしょう」。静の中で多く修行するよりも動の中で一つ修行した方がいいと劉済雨は強調する。
劉済雨が体得したのは、群衆の中にいても心は別にあり、混乱した環境に身を置いていても心はそこにあらず、ということだった。心がその環境から離れるのがすなわち「禅」であり、逆が「纏」である。「善行して善い言葉を口にすれば、誰にもが分かるが、心の中で思っていることは自分にしか分かりません。自分と向き合い、心を静め、反省して修行し、動の中に静を養い、乱の中に定を養うのです。『行動する時は逃げる兎のごとく、静寂の時は処女のごとし』と言われるように、これこそ真の技です」
劉済雨はマレーシア、マラッカとクアラルンプール及びシンガポール支部の責任者を歴任した後、四年前に台湾の花蓮に定住し、毎日證厳法師のそばで学んでいる。
彼は時には慈済を代表して海外で災害支援や講演を行い、そのほかは「精舎で静かに過ごしている」そうだ。落ち着かなくなることはないのか、と聞かれることが多い。そんな時は、「『待機する』ことで忙しい」と答える。以前と同様に多忙だが、心境が違うだけである。
忍耐強く待機するということは、いつ何時重大なボランティア任務が来るか分からず、必要ならどこでも出向くということである。例えば、臨機応変に速やかにネパールの被災地に向かったり、慈済がカンボジアで米を配付するのを手伝ったりすることである。消防隊員が待機するように、または長い平和な時でも兵を養って一瞬にして出撃できるようにする。
「サッカーの試合で、もし時間をかけたドリブルとパスの過程がなければ、ゴールに向かってシュートするチャンスはやって来ないでしょう」。劉済雨はこう言った。「成否の分かれ道はその過程にあるのです」。ボランティアの仕事は見返りを求めないが、何事も心して準備することが必要で、そうすれば、行動を起こす時に自信を持って簡単に事を処理することができ、機会を逃すことなく成就することができるのである。
❖心身を静定する秘訣・良友を見つけること
◎口述‧劉濟雨 整理‧李委煌 訳・済運
仏法では「善知識」に近づくよう教えている。孔子は「実直で思いやりがあり、知識に溢れた友」のような有益な友を作れ、と言っている。どういうのが良友なのかはお分かりだろう。子供に良い友達と仲良くしなさい、と教えるように、良友を多く持つべきではないだろうか?
良友と仲良くすることは、「残すものと捨てるもの」を見極めることを知らなければならない。誰が損友であり、誰が益友か? 一緒になるといつも飲み食いしたり娯楽に興じるのなら止めた方がいい。金や権力のある人は、いかにも世の誰とでも知り合いのように見えるが、実際は誰とも心を深く通わせることなく、心の支えとなる「恩人」が一人もいないのかもしれない。それ故、多数の友人よりも一人の恩人の方が望ましい。
蜜蜂と一緒なら、花と蜂蜜を見つけることができる。慈済ボランティアと一緒なら、心の桃源郷を見つけられるだろう。いつも善人と一緒で、正念に接していれば、知らず知らずのうちに智慧のある善人になるはずである。
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