慈濟傳播人文志業基金會
動の中で静を修行する生活の智慧

人々は生活のために否応なしに引っぱられてしまうことが多く、

借金の奴隷となったり、ネットの情報に縛られたりしている。

世の中を騒がせている環境問題に対しては無力で、

騒がしい場所から遠ざかるが、静かになるとまた落ち着かなくなる。

混乱した世の中で、静かな心の桃源郷を見つけるにはどうしたらよいか?

掃除をしながら「心地を掃除」する。薪や水を運ぶのも全て禅である。

「五色は人の目を盲ならしむ。五音は人の耳を聾せしむ。五味は人の口を爽わしむ。馳騁畋猟は、人の心を発狂せしむ」と中国古代の哲学者、老子は二千五百年以上前に未来の人間をこう予言している。

現代社会は外的環境からの刺激を多く受ける。とくにネットの世界からの音声や画像が人を惑わして心を攪乱し、虜にして自制できなくさせる。下を向いて見つめる携帯電話の画面の方が、顔を上げて見える人間社会よりももっと現実的に感じられ、夢中になっているのである。

一九七〇年代、仏教を北米に紹介したチョギャム・トゥルンパリンポチェは現代人の思慮と矛盾に関する本を著し、「世界は目まぐるしく変わり、人々は流れに呑み込まれて止めどない思考や情緒、欲望が起き、心と日常の生活はまるで二つに切り離された全く別の出来事のようになってしまっている」

現代人は全般的に心が浮わついていてせっかちで、長らく自分の心を粗雑に扱ってきたため、次第に心が鈍感になり、環境の変化と危機を察知しにくくなっている。雑音だけが聞こえ、静かに心の声を聞くことができなくなっている。

 

「暁に目覚め法の香に浸る」時間、世界11カ国300余りの道場は静思精舎の本堂とネットで繋がれている。この時を共に過ごし、ボランティアは精進と静心に励んでいる。

 

刻々と変化する世の中の動態的な日常生活の中で学び、心の中に静定の道を確実に見つける方が、静かに何時間も座禅するより有効な方法かもしれない。「実際もしこの外の世界がなかったら、修得禅定の可能性はほとんどないでしょう」とチョグヤムトルンパリンポチェは言っている。禅宗《六祖壇経》にも、修行して悟りを得ようとするなら、世の中から離れていては得ることはできない、と書かれている。

チョグヤムトルンパリンポチェは「仕事中の禅定」または「外向性禅定」を提案している。これは、よく耳にする動態禅や生活禅のことである。禅定または静定の境地とは、長年苦行をしたり、精神を離脱した状態に自分を置く必要はなく、善なる方法や智慧を日常生活に取り入れることでも到達できるものだ。

一般的に言う静修とは主に自分の心と向き合うことである。慈済ボランティアは逆に外での慈善活動を通して世の苦難に近づくことで、真の自分を映し出している。言い換えれば、彼らは異なった方法で自分を認識、観察しているのである。

慈済ボランティアも修行活動で静座することはあるが、必ずしも長時間座禅するわけではない。彼らは毎日早朝に證厳法師の講釈を聞くが、仏法経典の知識面における徹底した理解を重視していない。

ボランティアが厳格に護っている「慈済十戒」(註)は、「規則」であって「規制」ではなく、一定制限を課して日常の心身の安全と安らぎを護るものである。

それは古めかしくて型にはまったしきたりのように見えるが、実は彼らが仕事で多忙な時、外的環境や人事の影響を受けて心が乱れる時に護ってくれている。彼らは静定を修得するが、それは心が頑なに変化に順応せず、得意になるに任せることではない。それなら決まった時間に静定する必要はない。

  

慈済ボランティアは社会奉仕や国際慈善災害支援に励み、無償で忙しく働く。それは行動を通して自分と家族の健康と平安に感謝するからである。動態は世俗の欲望を抑えることができ、一挙手一投足や気持ちの変化など全てが修行の対象なのだ。
 

 

動の中から静を修得する

 

静定を求める心は日常生活から切り離されて考えることはできない。動と静が全く別の事柄であるというのは、言葉と行動が全く異なるような馬鹿げたことと同じである。

体は静座していても、思考が遠く離れている状態が動なのか静なのかを試しに考えてみたらよい。日常の仕事で精神を集中させている状態は動なのか静なのか?

「四六時中、座禅と礼拝と数珠を数える方法で何年も修行してきた人が、悪習を変えず、煩悩を持ったまま、性格も考え方も変えていなければ、本当の修行とは言えません」「あなたの職業が何であれ、自分の仕事を受け入れ、境地や物事、人に接して習性や心を正す必要があるのです」と中国の現代の哲学者、南懐瑾は言う。

静思精舎の法師が板を打ち、皆さんに晩の勤行を知らせる。規則正しい生活で、混乱した心が平静になれる。

ボランティアは群衆の中で慈善奉仕をしながら、その行動を機会と捕らえて心を鍛えている。一日一日が過ぎる中、見返りを求めない奉仕により、自ら進んで行えば喜びが得られることを知り、「執着しない」ことを学ぶことができる。奉仕によって身についたこうした心の持ちようが、慈済ボランティアとしてのライフスタイルを形成している。自分で意義があると思う行動をし、慈善の方式が心の静定をもたらす公益修行法となっている。

今回数多くの「多忙な人たち」をインタビューして静定の道を伺った。その結果、規律正しい生活と正念の育成、慈悲深く人に接すること、絶えず心することなどに集約することができた。騒々しい世の中にいても常に心に余裕を持ち、研ぎすまされた眼光を持つことができることが分かった。

結論を言えば、心の平静と自在感は見かけや物質的条件とは直接的かつ必然的な関連はない。群衆から離れて独居し、気楽で快適で何の煩わしさもない環境の中で静けさを求めるのは申し分ない。しかし、社会で人々と抱擁するのはもっとよいことかもしれない。というのも、苦難に深く係わり諸々の試練を経た後、ふと振り返ってみると、悪習を失くしていく過程で知足、感謝、静定の心境を体得しているのが分かるからだ。

註:慈済十戒
一、殺生しない
二、窃盗しない
三、邪淫しない 
四、嘘をつかない 
五、酒を飲まない 
六、タバコを吸わない、依存薬物を使わない、檳瑯を咬まない 
七、博打をしない、不正に自分を利さない 
八、親孝行する、大声を出さない   
九、交通規則を守る 
十、政治活動やデモに参加しない
 

 

 
NO.244