目の前の作品は建築設計図のように規則正しく描かれている。五十二歳の李道源がこれをどのように描いたのか説明してくれた。「墨色の製図ペンとB4の画用紙を使いますが、描くのに二週間かかります。毎回一センチから五センチ幅くらいまでを少しずつ模写していきます」
絵を習ったことはなく、自己流で描いた細い線の製図ペン画は出版社に認められた。仏光文化事業企画が出版する《仏教高僧百人漫画全集》で、魏晉南北朝の高僧僧祐大師の絵を彼に要請された。
作品を描き始めて間もない一九九九年九月、台湾中部大地震が発生した。李道源が住む南投県草屯は大きな被害を受けた。被災して不安な状況の中、突然頭の中が真っ白になり、しばらく何のイメージも湧いてこなかった。僧祐大師の漫画を完成させるために、彼は一から大師の物語を読み直し、メールで出版社とやりとりしながら、どうにか創作を続けた。
きめ細かい線は大師の清浄無垢な顔の表情を描き出しており、禅的な台詞は高尚の模範である大師の一生を物語っていた。その漫画は二〇〇〇年に出版された。李道源にとって初めての仏教漫画である。
李道源の解説
この絵は《唐・三蔵大師伝》の情景を現したものです。私はいつも自分のことを「昔の人間」だと思っています。唐の建築様式を好み、三蔵法師のように、法脈を世に伝えるために、西方に仏教を学びに行く困難をも恐れない勇気を持つことを自分に言い聞かせています。挿絵は出版社の好評は得られませんでしたが、毎回、それを見ると、感情が高ぶって来ます。
李道源は一枚一枚の絵が完成すると大事にしまうので、家族もどれだけの作品があり、何が描かれているのか知らない。病気になってからはあまり来客もなく、いつも一人で絵画の創作に浸っていた。
二〇〇九年のある日、慈済ボランティアが彼の家に現れた。その時、慈済基金会は弱者家庭の子供の学費を支援する「安心就学プラン」を推進していた。「お宅に就学しているお子さんはいらっしゃいますか?」。陳琬愉、賴盈勳、李學明の三人のボランティアは、就学中の李道源の姪のためにやって来たのである。
「いますよ」と李道源の父親がボランティアを出迎え、会話をするうちに李道源のことを話した。「部屋で寝たきりの息子がいます」
ボランティアたちは父親の同意を得て、その部屋を訪ねた。
「こんにちは。慈済のボランティアです」と陳琬愉が明るく挨拶したとたん、部屋に日が射したようだった。李道源は心の底から嬉しかったが、あまり大きな期待は抱かないようにした。「また来ることはないのだろうと。彼は三十数年前に自分が病気になってから、一家が困窮したことを知っていた。「誰もこんな病気には耐えられませんよ」と話す。
数日後、陳琬愉は何人ものボランティアを伴ってまたやって来た。「道源さん、様子を見に来ましたよ。昼寝から起こしてしまいましたか?」
「とっくに起きてましたよ」と彼は笑いながら電動の車椅子を操り、部屋から居間に移動した。二坪足らずの空間に十人も入ったので、とてもにぎやかになった。
「体の自由が利かず、片手しか動かせないけれど、まだ呼吸していることにとても感謝しています」。李道源は身体障害者になっても人生に失望することなく、呼吸できることは絵を描き、読書ができることだと彼は言った。彼にとって、絵を描くのは三度の食事と同じで、心を満たす糧であり、楽しい夢を描き出す術だ。
李道源の心の中には桃源郷があり、人の知らない苦しみと楽しみがある。彼を励まして、閉ざされた生活から抜け出させる必要があるとボアランティアは感じた。彼をケア世帯に登録し、毎月経済的な援助をするほか、電動車椅子の修理や電池の交換など必要な時もただちに手伝いに来ることにした。
訪問の時、ボランティアはいつも李道源の絵を鑑賞するのが楽しみだ。「どうして絵の中には人がいないのですか?」と以前聞かれたことがある。病気になってから絵を描き続け、三、四年経ってから「どうして人を描かなかったのだろう?」と自分でも気がついたが、今に至るまでそれは変わっていない、と彼は微笑んで言った。
「将来人を描くとしたら、それは年老いた母でしょうね」。母親は八十歳に近いが、息子を世話するため長期間にわたり睡眠不足に陥っている。二、三時間毎に彼を寝返りさせてマッサージし、昼間はリハビリに付き添い、床ずれができないように彼の皮膚を気遣っている。
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李道源は右手でペンを持ち、口でペンケースを開けて絵の作成に取り組む。生活の中でも、数多くの動作は手と口を併用しなければならず、彼は努力して克服して来た。 |
十五歳で発病
途絶えた学業
訪問の回数が増えるにつれ、ボランティアは李道源の置かれている状況が次第に分かってきた。
彼が十五歳の年の旧正月二日、姉と一緒に叔母の村のお祭りに行った。帰る途中、彼は突然左手に激痛を感じ、その後、鈍い痛みと麻痺症状が現れた。父親のバイクから降りた時、家の中に入る力さえなかった。
父親は状況を察知してすぐに病院に連れて行った。入院して四日間、医師は原因が分らず、「脳膜炎が引き起こした病変の可能性があり、脊髄液を採ってさらに検査した方がいいでしょう」と家族に言った。
「検査しても原因が判明しないから、脊髄液を抽出するとは!」。祖父は孫が半身不随になることを恐れて頑に反対した。父親は李道源の意識がはっきりしており、とくにほかには症状がないことから、家に連れて帰り休養させた。
冬休みが終わって新学期が始まり、同級生たちは学校に戻った。李道源は寝たきりから、大きな黒い床ずれができてしまった。家族は大した病気ではないと思っていたので、学校には引き続き就学すると伝えていた。しかし、この病気は彼と家族にとって苦難の始まりだったのである。
母親は毎日、彼の傷口を洗って薬を塗ったが、良くなる兆しはなかった。息子の背中の黒くて深い傷を目にして、涙を流しながらどうしたらいいか分からなかった。人から漢方薬を紹介され、全部試してみた。だが何日経っても、傷口は治癒しなかった。
李道源は一日中ベッドで過ごした。彼が幼年の頃、父親は祖父の畑を見限ってモダンな電気屋を始めた。レコードや電気用品を販売し、大きな収入を得た。裕福になった父親は五人の子供全員にピアノを習わせた。十個の鍵盤まで弾くことができた李道源の左手は今は使い物にならず、鍵盤を押す力さえなかった。
どうしようもない状況下で、人からどこそこの廟を紹介されれば、父親は神頼みに行った。廟では、あらゆる入り口にお札を貼り、毎日お参りした水を息子に飲ませるようにとの神様のお告げを伝えられた。
李道源は歩くにも人の助けがいる状態だったため、焦る心を抑え、学校に行きたいと言わなくなった。
そして、人から東勢にある「奇病」を専門に治療する病院を紹介してもらったが、そこで検査してもやはり原因が分らず、リハビリから始めるしかなかった。「この病院にはリハビリ施設があるから、安心して入院しなさい。来年は皆と一緒に学校に行けるかもしれないよ」と母親は真面目にリハビリするよう励まし、彼自身もきっとすぐに良くなると信じていた。
入院して十一カ月、李道源の両足には次第に力がついてきて、杖を使って歩けるようになった。それからしばらく経って旧正月になった時、家族は正月の間に病院にいるのは不吉だからと、道源の退院手続きをした。
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以前たまに出かける際には、李道源は風景を撮るため必ずカメラを持って出ていた。今は体力も衰え、ほとんど外出しないが、創作力は衰えず、毎日、髪の毛のように細い製図ペンで静態の写真を生き生きとした作品に描き変えている。 |
リハビリと読書と絵の製作
一年ちょっとの時間だったが、同級生たちは皆故郷を離れてほかの地方に進学した。李道源は孤独になり、言葉に表せないほど苦悶した。彼は毎日二階のベランダでリハビリに励んだが、時々ふいに、「こんなに閑静な故郷が自分を閉じ込める場所に変わってしまったのだ」と思った。
愚痴をこぼす相手がいないので、彼は自分と対話するようになった。「何か方法を考えるべきじゃないのか? このままこうやって一生過ごすつもりか?」
運命に負けたくない、強気の性格の彼は、さまざまな雑誌や本を読み漁った。彼は独学で日本語を学び、読んだ日本語の本だけでも数千冊に及んだ。その大半は景観や建築、美術、絵画に関する本だったが、日本の漫画も大好きだった。中でも繊細な製図ペンで描かれた絵がお気に入りだった。
その時から、製図ペン画の世界にのめり込み、関連書籍を読むと同時に、製図ペンのセットが欲しいと思うようになった。
当時、父親の電気屋は年々経営が悪化してついに店仕舞いしたため、一家の生活は困窮するようになった。幸いにも、長姉がピアノを教えて懸命に稼いだお金で、家計と李道源の医療費をまかなうことができた。そういう状況下では、喉から手が出るほど欲しくても、高価な製図ペンを買って欲しいと言い出すことはできなかった。
「道源君、僕は今日本から輸入した製図ペンを売っているんだ。買わないか?」という同級生からの電話で、彼は再び心にさざ波が立ち、見るだけでも気が済むと思った。
それは様々なサイズの製図ペンが揃っていて、定価は千五百元だった。三十数年前ではかなりの額だ。李道源は我慢できず、父親に、「同級生の商売を応援したい」と言った。思いも寄らず、父親は即座に了承してくれた。お金を払うのは彼を一番可愛がってくれる長姉である。
リハビリと読書のほか、絵を描くことが彼の生活で重要な一部分を占めるようになった。写真に写っている廟や古い建築物、草花の枯れた姿など、全てが模写の材料となった。描けば描くほど心に響くものがあり、無味乾燥の退屈な日々は突然色彩を帯びて豊かになっていった。
長姉は結婚してから姑の後について仏教を学び、二十七歳になっていた李道源に埔里の地藏院を紹介した。彼はそこで帰依してから一心に仏法を研究し、数多くの経典を読んだ。《地蔵菩薩本願経》や《薬師経》、《普門品》、《金剛経》などで、とくに禅宗の教えを好んだ。そして、その時から仏像の模写を始めた。
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以前は写真を大きくプリントしてなぞっていたが、今はデジタル画像を欲しい部分だけ印刷して使うことができる。パソコンを使うようになってから、李道源ももはや制約がなくなり、ネットで外の世界と繋がるようになった。 |
大病を乗り越え再びペンを取る
李道源が三十歳の時、再び試練が訪れた。動脈から出血し、再度体が動かなくなったのだ。
「これは奇形の動脈瘤です」。検査の後、医師は「増殖の速度がとても早いので、切除は不可能です。腕の切断が最良の方法ですが、生命の危険も考えられます」と言った。病気の原因は特定できたが、ただ「生命の危険」という一言が母と子を直撃し、二人はまるで生死の離別をするかのように抱き合って大泣きした。
四十七歳の時、左手の動脈瘤が皮膚から突出してきた。葡萄の房のようになったばかりで、五十元硬貨の大きさだった腫瘍が、その二週間後には卵ほどの大きさになり、血の混じった茶色の膿が流れ出した。腕の切断手術の時、医師は彼の腹部の主動脈が剥離しているのを発見した。まず人工血管に置き換える必要があった。腕の切断手術が終わると今度は腸が癒着して食べたものが通らず、再び手術室に入るしかなかった。そうやって、李道源は前後八回手術を行った。
「母さん、こんなに苦労かけてごめん」。李道源がそう言うと、母親はいつも軽く受け流した。「お前を生んだからには、牛になってでも引っぱって行くよ」
母親は彼を世話するため、毎晩彼の側に小さなベッドを置いて寝ている。彼に寝返りをさせるのに便利で、こうして三十年が過ぎた。彼が五十歳の時、母親は未だに片膝を当てるだけで簡単に彼をベッドに載せることができるが、もう彼をベッドから抱き下ろすことはできなくなっていた。
左腕を失くして命は助かったが、萎縮した右手も絵を描く時は力が入らず、最後には胸や顎も使っても、思うように製図ペンを使うことができなくなった。右手は軽く握れるが、細いペンを握る力はなかった。母親がある方法を思いついた。粽を縛る綿の紐を水で濡らしてからペンに巻きつけた。母子で試行錯誤して満足できる太さを模索した結果、ついに製図ペンを握って描けるようになった。
手足が徐々に萎縮していくうち、わずかに残った掌も思うように広げることができなくなった。彼は自嘲気味に言う。「頭から足まで全身わずかに残った右手を上げて拳を握るだけ。こうやって揺らすと、招き猫に似てませんか?」
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涅槃の樹
これは李道源が最も好きな絵である。単純な構図だが、注目されない端の方を細かく現している。彼は製図ペンを通して静寂且つ強靭な生命力の花を咲かせている。
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五十歳で初の個展
慈済ボランティアと初めて知り合った四十四歳のあの年、李道源は肺炎を起こして集中治療室に入り、気管切開をした。ボランティアは交替で彼を見舞った。
その翌年、気管に通した管を抜くために再び入院した。母の日、陳琬愉は数人のボランティアと予告なしに病室を訪れ、彼の母親にプレゼントした。しゃることができなかった李道源の代わりに、「母の日おめでとうございます! 皆で歌を歌います。いいですか?」と言った。
「一本の針、一本の糸……」。ボランティアたちは歌いながら手話を演じた。
「母さんの一番好きな歌です。どうして知ってるんですか?」
母親はその歌を聞くと感情が高ぶり、滔々と涙を流した。長年息子を世話して来た苦労が慰められ、人に分かってもらえたのだ。ボランティアは小柄な彼女を抱きしめた。
李道源は腕を切断してから何度も手術したので、体重が三十七キロにまで落ちた。入院期間中、半年間は絵を描くことができず、心が晴れなかった。陳婉愉は絶えずボランティアを誘って彼を見舞い、慈済がケア世帯のために準備している絵の個展に参加するよう励ました。
「描いた絵は十数年間、倉庫に入ったままでした。ボランティアたちのおかげで他の人に見てもらうことができ、私も皆と交流することができました」。二〇一五年、台中支部で開かれた個展で、李道源は喜びを表しながら、ボランティアに感謝の気持ちを語った。側に付き添っていた長姉も感動し、「これは道源が五十歳でもらった最高の誕生日のプレゼントです」と言った。
「私たちは道源が命の闘士であることに敬服していると共に、彼は私たちが学ぶべき対象です。ですから、私たちは彼のことを大事にしているのです」と陳琬愉が言った。
李道源によると、病苦があるから仏法と出会い、経文を研究しているという。しかし、生死の境目で最大の山場に直面した時、心を静めることができなかった。逆に、仏法を絵の中に取り入れたら、生命の静けさと安定した力を見つけることができた。
体が不自由なため、彼は創作の材料をほとんど写真に頼っているが、使えない部分は無視している。最も細い製図ペンを選ぶ理由は、黒は黒でも、発色する墨色でなくてはならないからだ。製図ペンのインクは防水機能を有し、墨色が安定してくることで絵を長期的に保存することができると李道源が説明した。
インクが枯渇するのを避けるため、早く完成できるよう、睡眠を犠牲にしてまで、彼はできるだけ毎日描き続ける。
彼が最も気に入っているのが「涅槃の樹」と題した絵である。構図は単純で、砂利と砕かれたレンガを注目されにくい部分に描いた。彼自身のように、注目されなくても、生命の光は放たなければならない、と彼は言った。
李道源は長い間、病魔の無情な試練を受けて来たが、打ち負かされることはなく、不運な人生であっても笑顔が消えることはなかった。「早くから人生を淡々と見つめてきました。例え、目の前に百万元が落ちていても、心が動揺することはありません。腰を曲げたり、手を延ばすこともできないのに、どうやって拾うのですか?」と彼は茶目っ気たっぷりに言った。
体にまとわりついた分厚い繭を破り、果てしない想像を奔放に描き出すことができるようになった。李道源は自分の消え入りそうな生命の価値を引き続き発揮させてくれた家族と、彼を大事にしてくれた慈済ボランティアに感謝している。そして皆が自分の作品を通して生命の光と美しさを感じ取ってくれることを願っている。(慈済月刊六〇四期より)
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7年前、李道源の家を訪れてから、陳琬愉(写真左)とボランティアたちは途切れることなく世話を続け、彼のお母さんを楽にさせると共に拠り所を与えてきた。 |