慈濟傳播人文志業基金會
小琉球島の涙
天に向かってそびえる花瓶岩は
小琉球島の有名な目印である。
島の住民の誰よりも前から存在し、
島の変化を見届けてきた。
島の環境が以前のように美しくなくなっても
聳え立つ岩には成すすべもない。

溜息

私は海辺の珊瑚礁。太陽と星と共に静かな歳月を
過ごしてきた。私は人類に憩いの場を提供したが、
心無い人類は私の上で焚火をしたので、私の心は
傷つけられた。そして、人類はゴミをいっぱい残
して行った。いったい私が何をしたというのか?

宿命

私はかつて青い海を抱く美しい白浜だったが、毎
日大量の化学クリーナーが混ざった生活排水を飲
まされ、生ごみも捨てられている。今では私は異
臭を放ち、真っ黒な水が何本も流れるようになっ
た。
 

商機か危機か

 
台湾本島西南沖に位置する小琉球島は全島が珊瑚礁でできている。北東方向からの季節風の影響を受けないため、海水の平均温度は二十五度と常に一定で、独特の自然環境の下に豊かな海洋生態を育んできた。観光客は水際に腰を下ろして波の音を聞いたり、海水の色の変化を楽しむことができる。またウエットスーツに身を包んで海に潜り、緑色のウミガメと泳ぐこともできる。
近年、小琉球はバカンスの代名詞となっている。政府の政策で静かな漁村だった小琉球は観光地へと脱皮した。大勢の観光客を受け入れるために、現地の住民は次々と民宿を建て、多くの若者が島に戻ってきて仕事に就いている。
大鵬湾国立風景区行政情報ネットワークの統計によると、二〇一六年に小琉球を訪れた観光客は四十万人を超えた。大量の観光客が訪れたことにより、短期間に一万人以上も島の人口が増加した。わずか六・八平方キロメートルの小さな島に、大量のゴミやバイクの騒音、大気や排水汚染の問題をもたらし、長い間問題は解決されていない。「小琉球はかつて校長先生と船長と廟の三つが多い土地でしたが、今は観光客とバイクとゴミの三つが多くなりました」と住民が笑った。

フラッシュモブが現れた時

 
スノーケルは現地で最もポピュラーなアクティビティーの一つだ。観光客はインストラクターの指導の下に、海面に浮いたまま美しい海底の景色を堪能し、色とりどりの海洋生物や珊瑚礁を鑑賞することができる。そこは最も自然な生態教育の場で、休みになると海辺は人でいっぱいになる。
大多数の人は鑑賞するだけだから生態に影響を及ぼすことはないと思っているが、異なった角度から考えてみると分かるはずである。それが自分の家だとしたら、静かで自在な生活がなくなり、毎日招かれざる客が大騒ぎし、常に心配と緊張の状況下に置かれたとしたらどう感じるだろう? 住民によると、今はまだ数多の魚が泳ぎ回っているのを見ることができるが、すでに海底生物の種類の減少と消失が始まっているという。珊瑚に覆われた面積も年を追うごとに減っている。それは海の生態を愛する者にとって心が痛む知らせである。海中の世界の美しさ故に多くの人が近づくのだが、あまりにも多くの人が近寄るため、海洋生物の生存を脅かしている。もしここで立ち止まり、生物の生存空間を尊重し、距離を保ち、弄ぶのではなく遠くから見守ってあげられるなら、海洋生物はこれからも人々の目の前に現れ続けるだろう。
 

有効的な再生期間

 
小琉球でも人気のある潮間帯は潮が満ち引きする境界線で、引き潮の時には多くの生物が取り残されたままになる。たとえばウニやナマコ、甲殻類などの豊かな生態を見ることができる。民宿経営者はガイドを兼任しており、次々に観光客を連れてくる。しかし、来る人が多くなるにつれてこの砂浜も踏み荒らされ、ウニやナマコ、甲殻類が踏みつぶされている。それによって直接的、間接的に潮間帯の生物は減少したり消失したりしている。
潮間帯生物の保護回復期を設けるために、毎年十二月から三月までの小琉球観光の端境期に観光客の入場を禁止し、四月から解禁するようにしている。しかし、地元の人はよく知っているが、一年のうちの四カ月間を保護期間にしただけでは生態の復元には足りず、やるせない気持ちで見ている。
潮間帯生物に保養回復期間があっても、解禁された後、見境なく踏み荒らしてよいというわけではない。それよりもどうしたら共存できるかを考えるべきで、人間は自然界の生物を尊重すべきである。一時の好奇心で生物を採取し、それを持ち出してはならない。生物が最も必要としているのは生息することであり、「水槽の中でしばし生きながらえること」ではないのだ。

小琉球の声を聞け

 
風光明媚な島と豊かな生態を見ようとする世界各地の観光客を乗せた船が台湾本島からひっきりなしに白砂尾港にやってくる。一方、時を同じくして南東の大福港では人々が回収した廃棄物を貨物船に運んでいた。目の前のビニール袋につまっていたのはまさしく観光客や住民が捨てた回収資源であった。
小琉球のゴミは船で屏東県東港まで運んで処理されているが、船の容量が小さいためにコストが高くつくので、普段は島に積んだままである。現地住民のリサイクルボランティアは環境を護る使命を担っている。人々が回収できる物もゴミとして捨てられる中、二十年間回収、分類、袋づめなど、人手が足りない現地の清掃を補ってきた。
島には毎日何千人もの観光客が訪れる。小琉球の慈済リサイクルボランティアの人数は多くなく、二十人ほどしかいない。資源回収し分類できる量は限られている。観光産業が発展してから、現地にもたらした環境と生態への悪影響は彼らが一番よく分かっており、皆遺憾に思っている。

見えない風景

 
小琉球にはもともとゴミ焼却炉があった。だが、島内のゴミが多くなかったのと、機械の運転と人件費のコストが高い上に、海からの風で多くの設備が腐蝕して使えなくなったため、十年以上も使用されていない。しかし、島内のゴミは焼却炉の停止で出なくなるわけではない。近年の観光業の発展で、最盛期のゴミの量は平日の二倍になり、毎年のゴミ処理費用は一千万元(一元が約三・五円)ほどになっている。ゴミは船で屏東崁頂焼却炉まで運ばれている。
焼却炉からあまり離れていない所にゴミ処理場があり、リサイクルボランティアの李洪金善師姐(師姐は慈済の女性ボランティアに対する呼称)が毎日必ず来る所である。六十歳を過ぎた彼女は二十年間、ブルドーザーが積み上げられたゴミを谷に落として谷が埋め立てられるのを見てきた。彼女が生きている間にゴミ処理場が昔のような湿地に戻るのを見届けることはないかもしれないが、子孫にゴミの山を見せたくない。
金善師姐は現代人の浪費と言えるほどの消費を理解できないが、ゴミ処理場から漂ってくる異臭に耐えながら、ゴミの山から回収できる物を選別し、持ち帰って分類することでゴミの量を減らそうとしている。このような「山を動かそうとする愚かな年寄り」的のような精神は他人の目には面白おかしく映るかもしれないが、私たちは彼女を尊敬し、その精神に感動している。
 

どうしようもなくても堅持する

 
環境保護活動に参加して二十年になる陳壽山師兄(師兄は慈済の男性ボランティアへの呼称)は小琉球の環境保護における重要な担い手である。以前彼は漁業で生計を立てていたが、今では海と大地を護るリサイクルボランティアである。その日、陳壽山師兄はリサイクルに使うトラックに私たちを乗せて回収物を集めながら指定場所を回った。彼は車窓の外を眺め、ここ数年、小琉球では環境保護活動が難しくなっていることを私たちに訴えた。
以前、小琉球ではリサイクル活動に住民が参加して膨大な回収物を処理していたが、観光産業が発展した今、多くの住民は生活のために次々に民宿やダイビング専門店、土産物店を経営するようになった。観光客と回収物の大幅な増加とともに手伝う人手が急激に減ったことで、壽山師兄の負担がどれだけ重くなったか想像に難くない。しかしだからといって、彼はリサイクル活動をやめるようなことはなかった。例え一人ぼっちでも、何としてでも回収作業を終えるようにしている。もし、自分でさえもリサイクルの仕事をやめてしまったら、自分の住むこの島を見捨てるようなものだということを陳壽山師兄はよく知っている。

リサイクル活動は自分のためにもなる

 
小琉球のリサイクルはボランティアのほかに善意の人々の協力に頼っている。たとえば民宿や店が回収物を取っておいてくれたり、指定場所に住民が回収物を持ち寄るなどの協力があって初めて、広い島内で円滑に回収ができるのである。ある程度の量が集まってから、ボランティアはトラックで回収する。
実はその後の分類と整理の段階でこそ、人手と志に対する試練が待っている。旅行の最盛期になると、回収する量は普段の数倍にもなり、ボランティアだけでは全く間に合わない。その上、以前使っていたリサイクル場は地主の要求によって二年前に返還しており、回収物の置き場がなくなってしまったため、暫時、壽山師兄の家の車庫と空き地に置くしかない。それがボランティアの環境保護の決意にとってさらなる試練となっている。
小琉球でのリサイクル活動は容易なことではない。数少ないリサイクルボランティアに頼る以外に、住民と観光客が共通の認識を持って分類の習慣をもつことによって、回収できる資源を大量のゴミにしないことが大切である。もし、自前の容器を持ち歩き、使い捨て容器のゴミを減らせるなら、それが問題解決の最善の道なのである。

 

環境保護のために現地の物を使う

 
壽山師兄がある体験談を話してくれた。漁村ではよく「グラスファイバー製の漁業用網」を見かける。それは漁になくてはならない道具で、漁業の経験がある彼はその強靭な特徴をよく知っている。漁師がそれを廃棄処分する時、壽山師兄はそれをもらい受け、回収資源を入れるビニール袋を縫う糸として使っている。新品の袋は六十元するので長期的に購入し続けることはできない。そこで、壽山師兄は処理場に行って破れて捨てられたものを拾い、きれいに洗ってから破れた部分を縫い合わせて使用している。それは手間のかかる仕事だが、節約のためにはどんなに手間がかかってもやる価値があるのだ。
小琉球でリサイクルする場合、ほかの地方よりもリソースがあるわけではなく、コストも高い。細かいところから気を配らなければ、不必要な浪費を抑えることはできない。したがって、現地での調達とリソースをうまく使うことが小琉球でのリサイクル活動の特色になっている。

目にした美しさと哀愁

 
小琉球の慈済リサイクルボランティアは皆地元の住民で、天然の美しい島が汚染されてきた経緯を目の当たりにして心を痛めている。自分たちが生まれ育った土地が破壊され続けるのを見て忍びなく思い、リサイクル活動に参加することでこの土地が汚染される速度を少しでも遅らせようと期待している。
ここ数年の間に整理した回収資源の大部分は観光客が捨てたもので、中でも見栄えの良い飲料を入れるペットボトルがだんトツに多い。その次に多いのが民宿業者が使い終えたクリーナーや漂白剤のボトルや缶で、そのようなボトルや缶だけでもどれだけの環境汚染になるかが分かる。観光客が増えれば、それだけ民宿業者の使うクリーナーの量も増える。小琉球島内には排水処理設備がなく、化学物質が妥当な処理なしに直接海に流れれば、海洋と生態は大きなダメージを受け、どんなに美しい海洋の景色もいつかは失われる日が来るだろう。

菩薩船の支援に感謝

 
小琉球のリサイクル活動はほかと違い、分類処理した資源を貨物船で台湾本島の東港まで運び、リサイクル業者に渡している。平均して一カ月に一回運ぶため、その前に回収資源を梱包し、一定量に達してから船会社に連絡して予定を決める。船が出港する前の日、ボランティアは梱包された回収資源をトラックで港まで運び、一袋ずつ船に乗せ、船は翌日の早朝に本島の東港に向けて出港する。
ボランティアたちが「菩薩船」と呼ぶのは、この小琉球のリサイクルボランティアのために二十年近く奉仕してきた貨物船「恭成」のことである。初めは船会社の年老いた黄地芳船長が発心して、無償で慈済の奉仕をしていたが、数年前に定年退職してからは彼の息子が船長を引き継ぎ、小琉球の環境保護活動も続けて支援してくれている。
もし「恭成」の支援がなければ、一回の運賃だけで九千元近くかかり大変な経費になる。「恭成」は親子二代にわたって小琉球リサイクルボランティアの後ろ盾になっている。「もし彼らがいなければ、私たちのリサイクル活動はどうなっていたでしょう?」とボランティアが感謝する恩人である。
 

取り戻せない記憶

 
私たちが取材記録を書き終えて島を離れようとした日、一人の住民に出会った。彼も指定場所のリサイクルボランティアで、この島で生まれ育った人である。彼が六十一年間歳月を共にし、一番深く記憶に刻まているのがこの海である。彼は小琉球の環境が元に戻らないほど壊れてしまっていることを悲しく思っている。以前、島には四、五軒の民宿しかなく、住民の親戚や友人を泊めるためのものだった。今では五百軒以上の民宿があり、今なお増え続けている。「小琉球の周りは天然の珊瑚礁と砂浜で、天然の消波ブロックの役割を果たしていました。人類はどうして天然の海岸に人工の消波ブロックとコンクリートの建造物を積むのでしょうか?」と憤慨した。
私たちは自然のままの白い砂浜を見つけた。そこは住民の必死の抵抗によってやっと残されたものだった。現地に伝わる「招魂」という風習だからという理由で残された。招魂とは亡き者がさまよって故郷に帰る方向を見失なわないように呼び戻すことである。だが、幼年の記憶にある美しい小琉球がすでに破壊されてなくなってしまった今、先祖の魂をどこに呼び戻したらいいのだろうか?

 

NO.246