慈濟傳播人文志業基金會
日々、心に新しい年を迎えよう
物質面で豊かになり、毎日が新年のようになった今、
警戒心を高め、心に新しい年を迎えるべきです。
 
煩悩をなくし、欲念を抑えて、
心を汚染させず、清らかにするのです。
 
また、この世で苦難に喘ぐ人の身になって、
生存の希望を与えなければいけません。
 
 
今年の旧正月は世界各地から慈済人が帰ってきました。大勢にも拘わらず、静かに規則正しく出入りし、法縁で結ばれた大家族の年越しは法の香に満ちていました。
 
皆、家族を連れて帰ってきましたが、観光に来たのではなく、心を浄化することと共に次の世代に慈済の精神と理念を感じてもらうためでした。同門の法縁者たちは互いに挨拶を交わし、若い人たちが親にお茶を入れ、抱擁し合い、勇気を持って愛していると親に伝え、家族間の距離を近づけました。孝とは善であり、善行と親孝行は待てないのです。その数日間、精舎を巡っていると、喜びを感じるだけでなく、道と理を心に感じることができたと思います。
 
ここで過ごす間、世界の慈済人たちの話や新年の挨拶を聞けば、世の中の苦しみを知ることができます。また、この世の菩薩として苦難の衆生との出会いや離別の悲喜に接し、貧しい人たちの苦しみを取り除くのは実に容易ではないことを理解することができたでしょう。
 
広く天下に目を向け、己の心を修め、知足して感謝し、善に解釈して包容心を持ち、自分の人生を大切にしなければいけません。現在の生活は以前の人に比べると良くなっていますが、今は浪費がひどくなるばかりです。以前は新年でしか新しい物を買うことはなく、一年待ち望み、手に入れた後もとても大切にしていました。今の人は毎日、新しいものを着て、物をどんどん増やし、置き場所がなくなると、何回も着ていないのにゴミとして出してしまいます。
 
食に関しても同じで、以前の人は腹を満たすために努力しましたが、現代人は不足を満たすための摂取を増やし、栄養過多になっている一方、逆に欲念は益々大きくなっているのです。
 
物が豊富で毎日が新年のようになり、一日を一年のように過ごすため、新鮮さも物珍らしさもないのです。誰もが良い日を過ごすことができるようになった今、心に警鐘を鳴らし、心で新年を迎えるようにすべきです。
 
 
年越しは古い物を取り除いて新しい物に取り替えますが、心も即刻一新させて無明を取り除き、昨日あった欠点は今日中に改め、過った行いやその心構えを繰り返してはならず、毎日、清らかな心にして良い観念を取り入れてこそ、真に新しい日を迎えることができるのです。
 
心が満ち足りると毎日が新年を迎えるような気持ちになります。絶えず相手の身になって苦難の人の苦しみを思い、私たちが日常生活で少しでも欲望を抑えれば、多くの資源が蓄積され、愛を大きくすれば困っている人に希望を与えることができるのです。
 
地球の気候変動によって大自然の威力が強まり、一旦無常が訪れると人の力では抵抗し切れなくなります。欲念を抑えて物資を節約するのです。流行を追って絶えず古い物から新しい物に取り替えるために大量のゴミを作り、大地や大気を汚染してはいけません。
 
何時も大晦日近くなると全年無休の環境保全ボランティアを思い出します。普段よりも更に忙しくなるのは大掃除でゴミが出るからで、ボランティアは小雨や寒風の中でもリサイクルステーションに戻って分別しなければなりません。環境をきれいに保つために、翌朝まで仕事を続ける人もいます。
 
環境保全は理屈ではなく、身でもって行動に移すことです。ボランティアは異臭や汚れに堪え、片時も惜しんで微力を尽くして地球環境を護ろうとしています。彼らのことを思うと、感謝の念に堪えません。
                      
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旧正月の一日、百四歳になる花蓮玉里の古参ボランティア王成枝が亡くなりました。私は非常に辛いのですが、生死は自然の法則ですから彼に祝福を送りました。
 
彼は毎日、浄財を集めに出かけていましたが、車の運転ができなかったので二本の足が頼りでした。会員は花蓮から高雄や屏東の在住者もいましたから、その足跡は殆ど台湾を一周したほどでしょう。今年の歳末祝賀会に彼が私の前に現れ、いつものように来て、「法師様、私は二つの五十歳を『寿量宝蔵』に預けて今は四歳になりました」と言うのを待っていましたが、その願いは叶わず、私自身も風邪で玉里で休んでいたので、お年玉を人に託して届けました。
 
彼は愛の心を募るために、五元、十元という少額も集めに行きました。夜明けに出かける時、街灯が消えているのを見つけると記録し、事故が起きないよう役所に通報しました。そして、募金集めをするだけでなく、長期ケア世帯を訪問し、どんなに遠くても出かけていました。
 
千篇一律の生活を続けていた彼は、病床にあってもまだ故郷清水の浄財を集めに行っていないことを気にしていました。彼は五十年近くも慈済と縁を結び、喜んで行動し、最後までやり遂げていました。毎日、喜びに満ち、一日も休むことなく、淡々と自然体に単純で貴い生活を送りました。見習うべき模範です。
 
「一年の計は新春にあり、一生の計は勤にある」と言われます。慈済人が仏陀の教えを行動に移し、絶えず精進することを期待しています。私はずっと「間に合わない」という感じを持ってきました。なぜなら大宇宙の変化は一日たりとも私を落ち着かせたことはなく、いつも話したり行動する前に起きてしまうのです。ですから皆が一緒にそれを唱え、やらなければならないのです。慈済人が人に会う毎に慈済のことを話し、愛の心を募ってくれるよう願っています。取るに足らない一滴の水と軽視してはいけません。大地を潤し、蘇らせてくれる一滴なのです。皆さんが心を一つにして奉仕してくれることを願っています。
(慈済月刊六二八期より)
NO.268