慈濟傳播人文志業基金會
生命の闘士 お吉小父さん
二〇一八年八月五日、「生命の転換点で愛を見た」というテーマのチャリティー美術展が台南の慈済静思堂で開かれた。六人の参加者の作品は多種多様で、絵画、書法、ビーズアクセサリーなどがあり、作品には生命力が溢れていた。彼らはこの世に希望を見つけ、広く前向きな心で以て自分の人生をカラフルなものにしている。
 
その中で、硬直性脊椎炎を患ったお吉小父さんは、人生に希望が持てない時期があったが、慈済の医療チームとボランティアの付き添いと励ましで希望を取り戻した。彼が仰向けに横たわった姿勢で絵を描くのはとても大変であるが、彼は病気になる前の幼年時代の記憶を作品にし、その天真爛漫さと美しさが見る者の心を捉えている。しかし、人生の暗かった部分は描かれていない。慈済と縁を結んでからは、心に咲いた蓮の花と幼年期の記憶が繋がり、苦しかった人生が一転して光明に変わった。
 
一九五一年のクリスマスイブ、謝家に元気な男の子が生まれた。父親はその子に「謝良吉」と名付けた。一家の末っ子である謝良吉は甘やかされて育った。幼い頃、一番好きなことは父の商売についていくことだった。あちこち見て回る他に、アイスティーが飲めたからだ。そのような末っ子の特権意識が彼を癇癪持ちにさせた。
 
謝良吉は中学一年の時に南英野球チームに入り、毎日懸命に練習に励んだ。そして、曽てピッチャーだった二番目の伯父の指導を受け、チームの中ので人気者になった。紅葉チームとの決勝戦に出て優勝した時、当時のピッチャーだった謝良吉はチーム仲間とタクシーで台南市内をパレードしながら群衆に手を振った。しかし、残念なことに、それが彼の最後の試合となった。
 
十八歳の謝良吉は軍艦に乗って金門島で兵役に就いた。彼は手榴弾を野球のボールのように投げた。手榴弾は三十メートル投げれば合格だったが、彼はいつも七、八十メートルも投げた他、同僚が投げる姿勢をコーチしたりして合格を手伝った。
謝良吉の軍隊生活は誰よりも順調なものに見えたが、劇的な試練が訪れた。ある日、彼は冷たい水に濡れた後、下半身にだるさを感じ、力が入らなくなったのだ。医者に行くのが遅れた結果、最終的に、「硬直性脊椎炎」と診断された。
 

創作者:謝良吉

・お吉小父さんは20歳の時に硬直性脊椎炎を患って病苦に苛まれた。大林慈済病院の簡瑞騰医師が7回も手術して彼を生死の境から連れ戻した。ボランティアの励ましの下に、彼は絵を描いて心を癒した。とりわけ蓮の花を描くのが好きで、心が落ち着くのである。
 
・68歳の彼は、視力、聴力、体力共に以前より衰えたが、唯一変わらないのは、命を大切にする気持ちと生きていく強固な意志である。
 
彼は鎮痛剤で痛みを抑えたり、アルコールによって自分を麻痺させていた。退役後、実家に戻った彼は元からの激しい気性と病気の影響で仕事を転々とした。近所の人は、「五体満足な人間がなぜ仕事をしないのだろう」と陰口を叩いた。果ては自分の兄からさえも怠けていると思われた。
 
父親が亡くなった後、謝良吉は百日(註)以内に結婚式を挙げ、結婚写真を撮ったり披露宴を開かず、密かに結婚したが、それが後日の離縁の原因となった。夫婦喧嘩が絶えず、謝良吉が妻に手を上げた結果、短い結婚生活に終止符を打ってしまった。妻は荷物を抱え、乳飲み子を残したまま出て行った。(註:台湾では親が亡くなると百日以内に早々と結婚式を済ませる風習がある。)
 
息子は彼の母親が一手に育て上げたため、謝良吉には懐かなかった。妻や子は離れて行ったが、硬直性脊椎炎だけが纏わり付いていた。頸椎回転性脱位によって腰が曲って横たわることもできなくなり、舌が露出して食事するのも困難な状態になった。台南のあらゆる病院を回ったが、手術できる医師は一人もいなかった。発病してから三十年間、彼は苦痛に苛まれ、生きることも死ぬこともできず、社会から見捨てられた人間のように家の中で丸まっていた。
 

リハビリの一部として絵を描き、個展を開いた

 
二○○一年、先の長くなかった謝良吉が大林慈済病院に転送された時、整形外科の簡瑞騰医師は誰も見向きしなかった彼を勇敢にも引き受けた。
 
初めて救急外来で出会った謝良吉は重度の硬直性脊椎炎に苛まれて、曲がった杖のように背骨が百度余りも曲がり、胸と腹部が圧迫されて下あごが胸にくっつき、舌が露出して唾液を垂れ流していた。これほど無残な姿になるまで、どうして医者に掛からなかったのだろうと、簡医師は不思議に思った。
 
謝良吉は三十年間待ち続けた末に、ようやく手術してくれる医者が現れたのだった。座ったり立ったり横向きになることができるようにと、体を伸ばしながら七回も手術をした。僅か三カ月で謝良吉は体を伸ばして横になり、立ち上がって歩くことができるようになった。
 
しかし、手術後のリハビリの過程は苦しいものだった。大林慈済病院のボランティア陳鶯鶯らは謝良吉に付き添って励まし、彼の寂しい心を癒やすと共に、長年閉座された心を開け放ち、「病の苦痛は一時的なもので、それを克服すれば、自分のものになる」と言い聞かせた。
 
謝良吉は自分の不運な人生を嘆いていたが、自分を支えてくれた周りの人に感謝した。「自分にできるなら、皆さんのようなボランティアになりたいです」と彼は言った。彼はリハビリ期間中、病院に来るとボランティア室に行って作業をした。それが単に血圧表に判を押すだけでも喜んでした。また、病室で元気のない入院患者と話をして励ましたりした。
 
●ベッドに横たわって自由に行動できなくても、お吉小父さんは絵を描き続けた。
(大林慈済病院広報室提供)
 
 
謝良吉の回復は予想より良かったが、また試練がやって来た。彼は脳卒中で病床に伏し、体に障害が残った。陳鶯鶯は彼に両手を使って自伝を書いたり、絵を描くことを勧めたことから、意外にも彼の絵画の才能が花開いた。謝良吉は右手に力が入らず、伸ばすこともできないが、頑張って絵を描き、曲がっていた線が真っ直ぐになり、色使いも安定するようになった。興味が湧くと、食事と寝る時以外は狂ったように絵を描き続けた。観世音菩薩、弥勒菩薩、古来の遊戯、ミッキーマウス、ドナルドダック等の絵があるが、どれも感動的で生き生きとしている。
 
曲がっていた背骨が真っすぐ立てるようになった謝良吉は、自立して生活することはできなかったが、支援してくれる人が次々に現れた。二○○九年四月に大林慈済病院で個展を開き、その売上げ金を全部慈済基金会に寄付し、弱者家庭への支援に当てた。簡瑞騰医師とボランティアの十年以上に渡る付き添いで、謝良吉は「お吉小父さん」と呼ばれるようになった。彼は絵の具と画用紙に頑張って来た人生を描き出したが、人と病と心を救うという慈済医療志業の本質も証明された。
 

絵から人生が見える

 
お吉小父さんが大林病院の療養病棟から台南の福祉施設に移った後、現地のボランティアの陳菊が彼のケアを引き継いだ。彼女はお吉小父さんの秘書のように世話し、大林慈済病院にボランテイアや再診、簡医師に会うために車で連れて行ったりした。また、妹のように彼の話し相手になった。
 
台南に戻ったお吉小父さんにやっと家族と連絡が就いた。、初めのうちは二番目の姉が時々会いに来てくれたが、やがて息子とも連絡が取れ、孫がいることを知った。しかし、息子はいつも、嫁と二人の孫を中に入れたが、自分は施設の入り口で待っていた。それでもお吉小父さんは満足した。しかしその後、嫁が来る回数も減った。
 
彼は身内が来てくれることを期待しなくなった。見慣れた紺のシャツに白のズボン姿を見るだけで彼は嬉しくなり、明るく会話を弾ませた。
 
お吉小父さんはベッドでは上半身が三十度起き上がった姿勢で、片手で筆を持ち、もう一方の手でスケッチパッドを持って絵を描く。子ども時代の記憶や漫画のキャラクター、蓮の花などを描き、単純な輪郭と色で表していた。彼は特に蓮の花を描くのが好きだった。それは、「福田が各方面の善意の人々を招き、心の蓮が慈済世界を作る」との想いだけでなく、蓮の花は心を落ち着かせるからだという。泥沼に染まらず凛々しく立っているため、蓮の花を描く時はいつも心が静かに落ち着いてくるのである。
 

 

●お吉小父さんは中学時代は野球部のピッチャーだったが、そのことは病床で描く絵の題材となっている。

●子どもの頃の楽しい思い出や、田舎の風景などが心の奥から画筆によって紙に躍り出た。

 
台南の養老院はお吉小父さんが絵をたくさん描いたことを知り、一部の部屋に彼の作品を飾ると、薄暗い感じの部屋が鮮やかな色彩で生気に溢れるようになった。
 
七十歳近いお吉小父さんは、施設ではベッドに横になるか静かに座っていたり、サロンでテレビの音声を聞いたりして過ごしている。彼は視力が低下し続け、五センチから十センチ先しか見えない。また、背中の傷口の炎症で長く座っていると痛くなるため、二○一七年十一月以後もう絵が描けなくなってしまった。
 
病気も絵を描くこともお吉小父さんの人生のシナリオにはなかったことだが、確実に彼の人生の最も印象深い出来事となった。陽気な彼は「僕は病気に打ち負かされません。頑張って生きて見せます」と言った。過酷な運命と身体の苦痛は彼を打ちのめすことはできず、まるで誰にも自分の不運を言い訳にして同情させないようにしているかのようだ。お吉小父さんが示した命に対する尊さと堅持は、私たちの模範である。

●彼の作品は真実な人生の経歴と童心あふれる題材に満ちている。台南慈済静思堂にも続いて台南慈済中学校に展示され、生命教育に役立てられている。(撮影・顔霖沼)

(慈済月刊六二四期より)
NO.268