文
愛の心を大きくし、煩悩を減らして、
自ら菩薩となる訓練をすべきである。
最高の老人ホーム
地元の名士との会話でお年寄りの長期介護の話になり、高齢化社会でお年寄りの介護が社会に負担をかけているとすれば、根本的な解決策が必要であり、それは教育から手をつけるべきだと上人は言いました。
「以前、慈済が老人ホームを建てたらどうかと言う人がいましたが、私はいつも『一番良い老人ホームは自分の家です』と言うことにしています。子供は年配の親を養う責任を担うべきです。しかし、今の若い世代はとかく子供を甘やかし、親を軽んじています。そういう変化は望ましいものではありません」。
家族間の情が薄れたら、社会福祉制度や団体がお年寄りの介護をしても上手くいかないのではないかと上人は考えています。「自分の親は自分で介護するのが一番の理想です。社会の趨勢がこのようになっているのはとてもわびしいもので、慈済がその欠如した部分を補っているとしても、完全なものではなく、結論としては正しい教育をしなければならないのです」。
煩悩は増えるばかり
高雄の訪問ケアチームの報告にはどれも深く反省させられました。「苦難に喘ぐ人は経済的に困っているとは限らず、独居していて家族のケアがないケースとも限りません。そういう状態になるには原因があり、多くは家族間の情と関係しているのです。人は皆、子供や孫を欲しがりますが、子や孫が居さえすれば幸せなのでしょうか?あなたたちが目にした問題は全て子や孫たちのせいで苦しんでいるとありますが、仲の悪い人同士が出会うことや愛する人との別れは起こりうることですから、自分の苦しみと結びつけているだけなのです」。
上人は、マレーシア慈済人が精舎で報告した慈善訪問ケア案件について取り上げ、この苦しみの多い世で慈済の菩薩たちが人々の問題を一つひとつ解決していることに喜びを覚えます、と言いました。報告した後、ボランティアたちは一人ずつ彼らの家庭や事業における困難を語りました。夫婦や子供の問題など、どんなことにしろ、煩悩は尽きないのです。
「慈済人たちは普段、他の人を導くのは上手なのですが、一旦自分の身に問題が起きると、道理は分かっていても自分の執着を捨て、障害を乗り越えることができません。菩薩が軽やかで自在な心で衆生を悟りに導くことができるのは、穢れのない愛があるからであり、苦しんでいる人が救われるのを見ると、心が安らかになり、喜びに浸り、見返りを求めることはありません。しかし、子供や家族のこととなると、いつも執着心と比較する心が現れ、相手は自分と同じ程度の愛で恩返しをしているだろうかなどと気にし続け、心が休まることはありません。それが穢れた愛なのです」。
「凡夫の愛は執着心に絡まれていますが、菩薩の愛は奉仕に見返りを求めず、心に煩悩はありません。同じ『愛』であっても、穢れと清浄の違いがあるのです。訪問ケアから世の出来事を見れば、この世の苦しみを理解し、自分に警鐘を鳴らして同じ轍を踏まないようにしなければいけません。慈済人は凡夫の中で菩薩になるよう修行し、絶えず智慧を成長させて愛の心を培わなければなりません」。
「愛は増やすことができ、煩悩は減らしていくものです。普段から問題に遭遇した時にはそれを機会に心を修行し、何かが起きたからといってそれに纏わり付かれ、直ぐに念仏することでその業を消そうとしてはいけません。心から執着をなくさなければ、業は消しても消し終りません。日常生活の全ては禅であり、薪や水を運ぶのと同じです。もし心のわだかまりを解かなければ、煩悩は増えるばかりで、どんなに座禅しても纏わり付かれたままです。『纏』と『禅』の違いをよく理解し、『心に障壁がなければ、障害になる原因は存在せず、恐怖心がなければ、煩悩から遠ざかることができる』のです」。
(慈済月刊六二七期より)
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