慈濟傳播人文志業基金會
マレーシア華僑の心・台湾人の温情(下)
華僑から見たマレーシアと台湾の絆
 
クアラルンプール・シティー・センターの屋外広告に紹介されている台南の名物屋台料理。
ここぞとばかりにマレーシアの人々に台湾の観光と美食文化を宣伝している。
マレーシアの華僑と台湾の人々は同じ言葉を使い、同じように祝祭日を祝う。
離れた土地で過ごしていても、
「文化」という一本の細い糸でお互いが堅く結ばれ、切れることはない。
 
 
 

中国語教育に対する台湾の貢献

 
バトゥー・パハトには華仁、永平、新文龍中学などの独立中学が三校存在し、毎年沢山の卒業生が台湾に進学している。最大規模の華仁中学を例にとると、二〇一七年の卒業生四百五十人の内、約百三十人が台湾の大学に進学した。割合にして約三割になる。同校の百六十四名の教師も半分以上が台湾留学の経験者である。
 
華仁中学校の孫秀燕校長の後について打放しコンクリート設計の図書館に入ると、明るくて広い読書空間に迎えられ、典雅な芸術性と文化的な雰囲気が感じられた。「師範大学が多数の公費留学生枠を提供してくれるため、多くの貧困家庭出身の子供に進学する機会が与えられました。八十から九十年代までは独中の教師育成に協力しようと、台湾の教育部からも多数の留学枠の提供がありました。そこで、董總の推薦を受けて当時の師範大学三校(台湾師大、彰化師大と高雄師大)に四年間公費留学する場合、卒業後は必ずマレーシアに戻り独中で教鞭を取ることを条件としました。それは中国語教育を維持していく上で大きく貢献をしました。なぜなら、独中は教師が不足していたからです」と台湾の国立台湾師範大学を卒業した孫秀燕が言った。これら若手留学生が帰国し、学校で教鞭を執り、教壇に立って学生と台湾の留学経験を分かち合ったことから、学生は自ずとそれに影響を受け台湾留学に憧れるようになった。
 
●卒業証書が政府に認められなくても、バトゥー・パハトの華仁中学やその他の独立中華学校は中国語による教育を貫き、中国語教育の伝承に大きく貢献している。
 
今年高校三年生の陳彦妍は国立中興大学獣医学科を目指しており、台湾留学に大きな期待を抱いている。「多くの先輩が台湾に留学しているので、台湾については色々と聞いています。自分も行って体験したいのです。台湾の風景もいいですが、私は台湾の屋台料理を食べてみたい、最も行きたいのは逢甲夜市です」。
 
「私が勉強した国文学科では、有名な教師が名を連ねていました。例えば、故宮博物館の古典文献を全文検索できるデーター・ベースを作った陳郁夫先生がそうでした。私は陳先生について古典文学を勉強し、儒家思想の奥深さと先生の知識の豊富さを実感しました」と新文龍中学の陳保康校長が言った。
 
今年八月、李保康は僑委会主催の新南向政策教育フォーラムに出席するために台湾に行ってきたところで、九月には中国の中学を現地視察した。「私は台湾政府が多額の奨学金、学術交流、東南アジアでの学校説明会を通して南方へと教育政策を推し進めていることを感じています。ただ中国の研究経費がまるで上限無しであるのに比べると、台湾は更に効率よく海外のエンジニア教育と中国語学校の教師養成方面に資金援助を進めるべきだと思います」。
 
東海大学に留学したことのある前留台連合総会会長姚迪剛はこう語る。「以前の中国は学生数が不足していなかったので、外国留学生の招致にあまり積極的ではありませんでした。しかし、今は事情が変わり、北京大学、清華大学も毎年多額の奨学金をバックにマレーシアから留学生を招致しています。一部の親達も中国経済の成長と卒業後中国で就職することを考えて、子供を喜んで中国留学に送り出しています」。
 
●台湾留学した華僑が帰国後、色々な業界で成功している。例えば、有名な《南洋商報》の編集顧問を務めた黄兆平(右下)、華仁中学の中国語教師である鄭詩綉(左上)、女の子の踊りの夢を叶えるバレエ教師である許佩玉など(左下)。
 
一九七四年、マレーシアは反共産党を固持する立場から一転して、中国と国交を結んだ。八十年代後半は目覚ましい中国経済の発展という現実的な流れに乗るように、一部の新聞が一世紀も使ってきた繁体字を簡体字に切り替え、中国語の教科書も一新した。中国もその「一帯一路」政策の中でマレーシアを重点国家に見据え、例えば東海岸に連結する鉄道とマレーシアー中国クアンタン工業団地を作り、大量の資金投資を行った。
 
しかしながら、今年五月の総選挙で長年の与党であった国民陣線聯盟(National Front)が敗北し、九十二才という高齢のマハティール前首相 (Dr Mahathir bin Mohamad)が政権を取り戻し、組閣した。選挙前に批判したように現政府は中国に頼りすぎている面に取り組み、就任後その是正を実現しようとしている。マレーシア最大の中国語新聞である《星州日報》の報道によると、マハティール首相は去る八月に訪中後、直ちに中国によるマレーシアへの投資を一時先延ばしにすることを発表した。
 
●中国はマレーシアを「一帯一路」政策において重点国家に据え、大量に資金を投じた。例えば、クアラルンプールのザ・エクスチェンジ 106(右上)。

●ジャメ・モスク前の標識が北京を指しているのが両国の将来関係を暗示しているようだ。
 

台湾の歌を聴く:

テレサ・テンからジェイ・チョウまで

 
スピードを上げて高速道路の直線を走っていたタクシーがクアラルンプールの市内に入ろうとしている。この国際的な大都会のスカイラインは株価のチャートのように見える。ツイン・タワーとクアラルンプール・タワーが依然として、その中で目を引く。これもザ・エクスチェンジ106が完成するまでの短い間のことだ。この空に突き刺さるような超高層ビルは中国が投資施工しているのだ。
 
「名月はいつまた出るの、杯を持ち挙げ空に問う。天上の宮殿では今宵は何れの年だろうか……」とラジオがテレサテンの歌である〈但願人長〉を流している。彼女の柔らかな歌声が聞き手の心を癒すように。「やはり、古い歌がいいですね〜」と運転手の兄ちゃんが軽く鼻歌をしている。
 
少し話しただけで彼は若い頃からよくリウ・ウェンジェン(劉文正)とフェイ・ユチン(費玉清)の歌を聞いていたことがわかった。音楽ショップに入れば、前述した歌謡界の先輩二人以外にも若者が好きなジエイ・チョウやメイデイ(五月天 台湾の五人組ロックバンド)などのアルバムが店頭に並んでいる。
 
「四、五十年代、我々はチョウ・シュアン(周璇)、バイ・クァン(白光)そしてリ・シャンラン(李香蘭;山口淑子としても知られている)などが歌う上海の流行歌をよく聴きました。五、六十年代は青春舞曲(中国新疆ウイグル族の民謡)、康定情歌(中国四川省康定市に伝わる民謡)、虹彩妹妹等中國各地の民謡を小学校の音楽クラスで教わりました。六、七十年代に入ると、マレーシアはすでに独立して何年もたっていたのですが、イギリスの影響力が強く、メディアの影響もあって、当時の中学生は『ビートルズ』や『エルヴィス・プレスリー』など大量の欧米の流行曲を聴いていました。七十年代には、校園民歌が生まれた頃の台湾がそうだったように、中国語を話す華僑の中で一概に英語の歌を聴くべきではないという意識が芽生え始めました。ましてや、当時の台湾の音楽はとても勢いがあったので、我々も台湾の流行歌を受け入れ始めました」とマレーシアの流行音楽界のゴッド・ファーザー的な存在である周金亮が言った。当時は多くの台湾の歌手や役者が自分の歌や映画を宣伝しようとマレーシアにやってきていた。例えば、役者で華僑がよく知っている二秦(秦漢、秦祥林)や二林(林青霞、林鳳嬌)が主演する映画は必ず大ヒットしたので、映画の主題歌も歌い継がれた。「台湾でよく聴くリャン・ジンルゥ(梁靜茹)、ピングアン(品冠)、グァンリァン(光良)も本当はマレーシア出身の歌手なのです。台湾で流行してからマレーシアへと凱旋したのです」周金亮はこのように語ってくれた。
 
 
●「台湾の中国語流行音楽は代々華僑の若い世代に影響を与えてきた」とマレーシアの流行音楽界のゴット・ファーザー的な存在である周金亮が言った(左上)。ジェイ・チョウやメイデイなどの台湾歌手が大人気(左下)。
 
かつては中国語の流行歌の主な輸出国だった台湾でも、近年は中国にその地位を譲りつつある。数年前から超流行の番組《我是歌手》、《中國好聲音》(中国の歌コン番組)などが若い観衆の注目を集めている。「これだけは認めなければなりません。中国は番組製作の予算が多いのです。一つの番組の製作費は我々の一シーズンの予算に比敵するぐらいです」と周は続ける。「中国の市場はとても大きいので、すでに多くの優秀な中国語歌手が魅力を感じ、進出しました。しかし、それは台湾の音楽業界に未来がないことを表しているのではありません。何故なら『創造する意思』に代わるものは無いからです。台湾のミュージシャンが音楽を創りたいという気持ちを持ち続ければ、必ず世界中の中国語流行音楽界に居場所を見つけ、その才能を発揮出来るはずです」。
 

宗教は心の避難港

 
百年の歴史を持つ林氏宗祠天后宮に入ると信者が媽祖像を前に敬虔な祈りを捧げているのが目に付く。その中には、白髪をたたえた老婦人、中年の女性そして十代の若者もいる。香炉から線香の煙が漂い、廟内の柱と廊下を黒く燻していた。昔ここに住んでいた林一族は媽祖を信仰し、開墾が無事に進むことを祈願して一族で資金を集め、廟を建てて中国の故郷から媽祖の分身として金箔の像を迎え入れた。そこには林一族の先祖の霊も祀られている。バトゥー・パハトには三百以上の華僑の廟があるが、数ではジョホールバル州が一番多く、「廟の里」と呼ばれる所以である。華僑の信仰心がどれだけ敬虔で普遍的かがよく分かる。中国の故郷から仏像を迎え入れただけでなく、華僑は自分たちの信仰を発展させていった。例えば、クアラルンプールの路地に隠れて存在している仙四師爺廟である。張吉安によると「仙四師爺は事実上『仙師爺』と『四師爺』のことを指しています。前者はクアラルンプールの開港の立役者である葉亞来の前任である盛明利であり、後者は葉亞来の部下の大将鐘炳來です。両者とも死後、神格化され、当地の神になりました」。
 
マレーシアは華僑から見ると異郷の地であり、開墾初期は森と沼が多く、蚊、虫、野獣が出没し、マラリアなどの病気も多く発生した。その上、将来への不安が尽きなかったので、仏教や神道が華僑の心の拠り所となった。マレーシアの人口三千二百万人のうち仏教徒は二割近くを占め、国教と見なされるイスラム教につぎ二番目に大きい宗教である。華僑の人口は七百万人余りであり、その約八割が仏教徒なのだ。
 

●過酷な開墾生活に直面した華僑は宗教に心霊を預けた。例えば、百年以上の歴史を持つ仙四師爺廟は今も人気が高い。(左上)、祈祷師がお祓いをしてくれる(左下『移山圖鑒》より複写)。関聖帝君の忠誠心は華僑から深く崇拝されている(右) 。
「マレーシアの華僑文化は台湾の影響を受けており、学術、教育、映画だけでなく、宗教も含まれています」。台湾仏教慈済基金会セランゴ(Selango)支部の事務員である李文傑によると、「九十年代から例えば慈済、仏光山、法鼓山などの台湾の宗教団体がマレーシアで活動を始め、時が経つにつれそれらの名が華僑の間で知られるようになりました。例えばゲンティンハイランドのバス事故や東海岸の大水害などの時、慈済はいつも一番早く現場に着き、緊急支援を行いました。マスメディアの報道で、慈済の行いが知られ、認められるようになりました」。
 
マレーシアの第二民族である華僑は教育や学校創設においてマレー人優先政策下で苦境に立たされた。例えば、一九七〇年代に打ち出された「新経済政策」は、クォーター制が実施され、マレー人や少数民族を「土地の子」と称し、教育、住居、就職などの面において保証枠を与えた。華僑やインド人はこの特権の対象外にされた。幸いにして、多くの華僑は頭が良くビジネスに成功し、国家経済の大黒柱になった。マハティール首相は所得税の八割は華僑が払っていると称賛していた。
 
●災害発生後、いつも一番に支援に駆けつけるのが慈済である。例えばマレーシア東海岸の水害時は家の清掃を手伝った。(撮影・李文傑)
 
八〇年代の末期に入り、マレーシアと台湾との間で経済と貿易の交流が頻繫になると、台湾から大量のビジネスマンがマレーシアにやってきて、慈済とマレーシアの縁を結んだ。一九八九年、葉慈靖は人事異動でマレーシアに駐在になった時に慈済の理念を積極的に宣伝した。彼女が弱者家庭を訪問する際に同行した当地の華僑企業家である郭濟航は深く感動し、共に行動することを決めたのだった。そして郭さんは葉さんと共にマレーシアで最初の慈済の連絡処を立ち上げた。一方、台湾のビジネスマン夫婦である劉濟雨と簡慈露はマラッカにある工場の傍に初めての静思堂を建て、慈済の理念をクアラルンプールとセランゴ州に、そして東マレーシアへと普及させた。
 

●ネパール大地震の時は慈済マラッカ支部とクアラルンプール支部の前CEOである劉済雨(中)が被災者を訪問し(写真上)、セランゴ支部のCEOである簡慈露(右)が被災者の子供をケアした(写真下) 。
(上・撮影 蕭耀華、下・台湾仏教慈済基金会雪隆分会提供)
 
今、マレーシアには四つの支部があり、ボランティア数は百万人を超えている。ボランティアは金銭を寄付するだけでなく、リサイクルにも力を入れている。慈済が援助する対象は民族、宗教、国籍を問わない。その善の行いは華僑、マレー、インドなどの三大民族及び少数民族に行き渡っている。例えば、クキ族の難民のための無料診療、ミャンマーの水害の援助、スリランカが津波に襲われた時も慈済のボランティアが真っ先に到着し援助を行った。
 
慈済の国際災害支援に何回も参加したことがある李文傑は商売で成功した人だった。「以前、私は社長を鼻にかけていました。二十何年間冷蔵飲料の商売をし、沢山儲けました。車だけで三台も持っており、家も何軒かありました。しかし、一九九七年のアジア通貨危機の時、得意先が貸し倒れになった為に私が不動産を売って債務の返済に充てなければなりませんでした」と李文傑が言った。苦労して築いた事業が一瞬の内に消え、借金返済に苦しんでいた時、意外なところに新しい人生の方向を見つけた。「お金はいくら稼いでも、終いには全てがなくなるので、それならもっと意義のあることをしたいと思ったのです。弱者のケアや災害援助、そして菜食にすれば自分の心が充実するのだと慈済に入ってから悟りました」と李文傑は感慨深く語った。
 
●今年の夏 ミャンマーに大きな水害があった。マレーシア支部のCEOである郭済雨(2列目右から3人目)が現場を視察し、グリーンピースの種を配った。(撮影・蘇立斌)
 

同じルーツの文化 細く長く伝承

 
数百年前、祖先達は遠い唐山(中国)から海を渡り一部の人はマレーシアに、一部の人は台湾に辿り着いた。その子孫は遠い海の向こうの人間になり、違う運命を辿ることになった。初期のマレーシア華僑は異郷で活路を求め、故郷に戻って錦を飾ることを夢見ていたが、今では当地に骨を埋め、マレーシアで無視できない勢力にまで成長した。厳しい高等教育の普及や流行音楽、農業技術の伝授と交流、その全てを培うエネルギーの源泉となったのが台湾なのである。
 
「ブタの子」と言われるように命に価値がない移民は政治的立場がない上、経済的にも華僑とマレーシアの不平等政策の下、マレーシアの華僑は打たれれば打たれるほど強くなった。年配の人は神に祈り心の慰めを求めた。若い世代は台湾の慈善団体と力を合わせてマレーシアで苦しむ人々を守り、海外に大愛を伝え、身を以て「人間仏教」を実践し、慈善と人文の歴史を書いている。将来の局面が何方に転んでも、マレーシア華僑と台湾人は同じ文化のルーツを持ち、同じく中国語を話す。また、同じ儒教の教えの下に、同じ伝統祝祭日を祝い、これからも同じように清明節の頃に先祖を祭り、中秋節の頃に月見を続けるだろう。「文化」というこの貴重な細い糸はマレーシア華僑と台湾の友情をしっかりと結びつけ、末長く伝承し続けるに違いない。         
(経典雑誌二四四期より)

 

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